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黒岩比佐子 「パンとペン 堺利彦・売文社の闘い」(講談社)2

 p224 大逆事件大阪朝日新聞
 一九一一年一月、朝日新聞は判決翌日の社説で、政府発表を鵜呑みにした権力への見事なすりよりを見せている。
 「今回二十四人の性行及び経歴を見るに、一も常識を有する人類として数えるべきものにあらず。いずれも社会の失敗者にして、余儀なく無政府共産主義等の名を借りて、その鬱を散ぜんとするに過ぎず。何も皇室にうらみあるにあらず、ただ狂者が家長を恨み、道理を無きものとし、自らも憤死せんとするに過ぎず。まったく狂愚の沙汰なり。彼らに死刑を宣告す、これ社会より黴菌を除去するもの。吾人はこれをペストの掃蕩と同一視し、いささかもこれを仮借するの必要なしと信ず。これを行うはいわゆる社会政策によりて文明の余病を医し、その黴菌の源を断つにあり。その黴菌の発生に対しては、ただちに外科的裁断を加うると同時に、平時は内科的医療を加うるを当然なりとす。」
 いま朝日の原発廃棄キャンペーン記事を読むときには、当時から太平洋戦争敗戦まで国民に“内科的医療”を施し続けた体制「協力新聞」ぶりを、そのご都合主義と変節の過去を、参照しておかなければならない。すりよる相手をミリタリズムからポピュリズムに変えただけである。「時の勢い」こそ正義なのであろう。
 特に原発を火力発電で代替するとき、彼らが大キャンペーンを張ってきた二酸化炭素排出による地球温暖化問題はどうなるのか、EV(電気自動車)普及促進にどうコミットするのか、最大のエネルギーである電力が常に逼迫するとき、日本経済の「成長」を世界の中でどう方向づけるのか、社会の木鐸を自認するならぜひとも旗幟鮮明にして明快な論説を期待したいものである。
 まず、二酸化炭素排出問題がもとの木阿弥に帰すこと。代替エネルギーが現下では「焼け石に水」レベルにすぎないこと。今回規模の地震が発生するのは五百年から千年に一度であり、しかもいまのコンピュータ解析技術ではまったく予知不能であること、地震再来の蓋然性は電力逼迫の蓋然性よりはるかに小さいこと・・・、これらの自明な前提に立っての論説に期待したい。
 知をもって他人の愚を断罪するとき、自らの知が時のご都合に汚染されていないかを体の隅々まで検査するのが、知をもって生きようとする人びとの誠実というものである。そうでなければメディアなどは、デマゴーグの元締めと選ぶところがない。
 ちなみに読売新聞の正力松太郎は、一九二三年九月の関東大震災のとき警視庁の警務部長だった。それが、その年の十二月に起きた虎の門事件で引責辞任し、読売新聞社長に就任した。個人のキャリアとして今では考えにくいコース変更だが、あのナベツネを考えれば、なるほどとも思う。

 p261 木下尚江の転向
 社会主義に背を向けて去った木下尚江は『実業の日本』に、当時はやった催眠術にかかった人のようなことを書いた。「変化を自ら認めるのは修行未熟の何よりの証拠だが、死に対して恐怖した十数年以前のわが身を回顧すれば、ほとんど別人の感がある。今年一月、幸徳が死んだときのことだった。あんなに早く殺されるとは夢にも思わなかったので、一つ最後の手紙でも書こうと思ったのだが、そのときふと考えが浮んだのだった。死んだ人が、いまさらどうなる、と。」
 長年の盟友の刑死に対するこの木下尚江の態度に対しては、温厚な堺も黙っていられなかったようで、次のような感情をあらわにして反論している。「木下君ともあろう人に向かって、はなはだ失礼ではあるが、社会主義をやめた人は、そのやめた所以を世に発表する自由を有しているが、社会主義をやめぬ人は、そのやめぬ所以を世に発表する自由を有していないのである。自由を有している人が、幾度も繰り返してこれ見よがしにその自由を利用しては、自由を有さない人は聊か侮辱せられた如き感を生ずる。」
 「さらに木下君の文章を読むと、社会主義をやめぬ人はサモ不見識な、サモ下劣なやつのように見えるのに反し、それをやめた人は、サモ達識な、サモ清浄な超人高士のように見える。君がやめたのはただきみの倫理的もしくは宗教的自覚より生じた自然的結果に過ぎないのであって、やめない人をかように下げ落とすのは、甚だ乱暴狼藉の次第ではありますまいか。」
 p195 管野スガ
 これまで管野スガは男から男へと渡り歩く妖婦として伝えられてきた。この見方は、彼女より六歳年下だった荒畑寒村が自伝で描いた人物像である。彼が入獄中に、管野は手紙で、幸徳秋水と結婚するので分かれてほしいと書いてきたという。
 出獄した寒村はピストルを入手して秋水とスガを殺そうとする。それに失敗すると自殺を図ったが、これも果たせなかった。憤慨した同志たちは、秋水のもとを次々に訪れてスガとの愛人関係を怒鳴り散らし、男なら恥を知れと愛想を尽かして去っていった。しかしスガを愛していた秋水は、肺結核に苦しみながらも革命のために命を捧げようとする彼女を見捨てられなかった。
 世を人民のものとせんとする秋水の大義は天晴れであるが、寒村が獄中にあるあいだに女を自分のものにせんとするのは、いかに管野スガが「妖婦」であったとしても、喝采を持って迎えられる行いではない。
 しかし荒畑と菅野の関係がそれまでどのようであったかは、何人もわからぬことである。荒畑は菅野の望むようなことができないにもかかわらず、出所後ピストルを持ってストーカー行為をする変質男だったのかも知れない。ピストルがありながら自殺もできないような。藪の中に余人が分け入っては、蛇にかまれるのが落ちということもある。