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司馬遼太郎 「微光の中の宇宙(私の美術観)」(中公文庫)3

 ゴッホ
 p129
 ゴッホは精神病学の研究対象になったし、確かに精神病学はゴッホだけでなく、多くの天才の言動を追跡することによって、天才と狂気の類縁性を見いだしていた。天才にしばしば見られる精神病的傾向の指摘は、なかば常識化されているともいえる。
 精神病学者のまじめな研究には十分の敬意を表する。しかし、ある人間に巨大な才能が宿り、彼が多少いびつな性格と才能の表現に不適合な環境条件下におかれる場合がある。そして彼がその才能が発現場所を見いだそうとして異様に動き回ることがある。その場合、他の人間たちへの配慮や日常的態度を次々に破壊していくのは、いたし方のないことでもある。
 モーツアルトはひとつの曲想に襲われると、貴族と食事の最中にもトイレに駆け込み、五分間に何十小節かを書きなぐったという。そういうことがなければ、われわれのCDコレクションはずいぶん貧相なものになっただろう。ゴッホよりもモーツアルトよりもなによりも、イエス・キリスト自身が精神病的傾向を示していたことは、いまやあきらかである。
 そのイエスは自分の啓示の発出を示そうとして、弟子たちや民衆の前で黒い土けむりを立てるように狂いまわったが、知性の人パウロがそれを巧みにユダヤ哲学に融合させ、抽象的な思考に慣れていない古代ユダヤの人々に「非存在」という観念を教えた。このイエスパウロアウグスティヌスという精神病的傾向の三人がいなければ、私たちの近代とポスト近代の、すべての精神世界はおよそありえない。――この三人がいなければ、私たちはゾロアスターブラフマンと八百万の呪術の下に眠り続けていたかもしれない。

 p135
 ゴッホは一度も友情を得たことがなく、人々の好意に包まれたことがなく、幾度か恋をしたがすべて片想いに終わり、はげしく失意した。さらに彼はどの職もうまくゆかなかった。彼は人生というのは苛烈だと弟・テオあてに書いているが、ほとんどの人にとって人生は慣用句にあるほどに苛烈ではない。どの人間も分際に応じて適当に愛され適当に嫌われ適当にズルっこけて甘えて暮らし、そして歌の文句のようにツライといっているにすぎないが、正真正銘の天才ゴッホの場合、彼の人生はどうにもならなかった。