アクセス数:アクセスカウンター

内田 樹 「先生はえらい」(ちくまプリマー新書)

 p101-3
 コミュニケーションは「交易」と似ています。というか、ほとんど一緒です。コミュニケーションというのは、要するに、何かと何かを取り替えることです。そして交易の場合は、交換する側の両方が、相手側の差し出すものの意味が自分にとって未知であることのほうが、交易したいという欲望がもっとも亢進します。
 人間同士のコミュニケーションも、いつだってそうです。「もう分かったよ」とか「だから、その話は、もう聞いたってば」というのは、たいてい友好的なメッセージではありません。「分かったから、黙れ」というような、コミュニケーションの打ち切りを意図する信号ですね、たいていは。
 恋人に向かって「君のことをもっと理解したい」というのは愛の始まりを告げる言葉ですが、「あなたって人が、よーくわかったわ」というのは、別れのときの決まり文句ですよね。
 でも、これって考えると、変なことじゃないでしょうか?相手に「君が言いたいことはわかった」と言われると、人間は不愉快になるなんて。メッセージの正確な授受ということがコミュニケーションの真の目的だとしたら、メッセージが正確に受け渡しされたときに不愉快になるというのは、理路としてはスッキリしません。
 だとすると、コミュニケーションの目的は、「メッセージの正確な授受」よりも、「メッセージをやり取りすることそれ自体」なのではないか、というふうに考え直すこともできるのではないか。だからこそ、コミュニケーションにおいては、意志の疎通が簡単に成就しないように、いろいろと仕掛けがしてあるのではないでしょうか。
 女子高校生やおばさんたちの、空砲機関銃を一時間も撃ち続けるようなあのすごい「コミュニケーション」も、また、こうした事情の「雄弁」な証明のようであります。
 p152
 「大人」と「子供」の分岐点は、まさにこの「コミュニケーションにおける誤解の構造」に気づくかどうか、という一点にかかっている、ともいえます。コミュニケーションとは本質的にメッセージの「聞きそこない」であり、人間を理解するとはその人の本性を「見損なう」ことであるということを身にしみて経験すということなのですから。それは、恋をしたり、結婚したり、会社で課長にすがりつく経験をしたり・・・・、やはり大人にならないと出来ない相談なのですから。
 p139
「メッセージの正確な授受」がむずかしいのは、何も目の前の相手に対する場合だけではないでしょう。芸術家がその作品で何が言いたかったのかを伝えることは、自分に対してもほとんど不可能です。例えばモーツァルトに、「この作品を通じてあなたは何を言いたいのですか?」と質問することの愚かしさは想像できますね。モーツァルト自身がどれほど言葉を尽くして説明してくれても、それは実際の曲の最小の一楽節の百分の一の価値もないでしょう。
 NHKの「名作映画」解説で、ものの分かったようなナントカ監督が、その「名作」に関する薀蓄をやたら披露することがありますね。その「名作」の監督の意図とか、主演俳優の仕草の意味とか、同じ時代の映画にどんな影響を与えたかとか。 あれなどを見ていると、「これだけコミュニケーションということを理解していない人の作品は絶対に見たくないな」と思ってしまいます。