アクセス数:アクセスカウンター

最相葉月 『絶対音感』(新潮文庫)

 絶対音感とは、ごく簡単にいうと、例えば440ヘルツに調律されたピアノのA音(ラの音)を基準にして、そこからすべての音を正確に聞き分けられ、楽器でも声でも再現できる能力のことだそうだ。完璧な絶対音感を身につけた人は、街中のさまざまな雑音の中から、タイヤの軋み音、子供の金切り声、大男の叫び声の音階を正確に五線譜上に書けるらしい。一時大いに流行した子供の早期音感養成教育の効果で、日本人にはこの絶対音感を持つ子供の割合が高いらしい。

 p150

 映画『レインマン』の原作者で、『妻を帽子とまちがえた男』などの著作で知られる脳神経科医のオリバー・サックスは、絶対音感が生まれつきのものなのか学習によって多くの人が得られるものなのかは分からないと前置きしながら、次のように言う。
 「絶対音感モーツァルトメンデルスゾーンは持っていたといいますが、シューマンにはなかったといわれています。私の印象では、絶対音感と音楽的な才能や創造性はほとんど関係がないように思われます。持っていれば便利ではありますが、ただその場の環境や体調によっては音が狂って聞こえるといった面もあり、ときには非常に厄介であったりもするようです。
 「しかし、絶対音感が言語のように生きていく上で絶対に必要なものなら、おそらくもっと誰もが普通に持っていたはずです。多くの人が持っていないということは、人間が本来必要としないものを持っているという点で、特殊な能力であることは確かでしょう。」

 p304-5

 千住真理子は、最年少の15歳で日本音楽コンクールに優勝したとき、天才と絶賛された。だがそれは、テクニック先行型のバイオリン弾きが生まれたという留保つきの賛辞であると、もとN響コンサートマスターだった師の江藤俊哉は厳しく念を押した。「あなたはもう完璧だ。弾けないものは何もないはずだ。でもこれからが大変だね。これからあなたに求められるものは、(ただの超絶テクニックではなく)音楽という名の芸術だ。いつの日か、あなたの演奏で僕を感動させてください。」
 15歳の千住はただ呆然とし、答える言葉を見つけられなかった。「技術を磨くことは簡単なんです。一生懸命努力すればいいのですから。でも私は、優勝したとき、その技術が100パーセントあるということで、それしか自分にはないことをさらけ出してしまったんです。」
 「何を表現したらいいか、それがわかる私もいなかったんです。友達が何人かいて、好きな科目もある、そんな、ごく普通の15歳の私しかいなかったんです。喜怒哀楽もとても幼いものでしかない。幼稚な感情しか表現できない。テクニックは完璧だけど、そんなもので芸術は表現できない、幼すぎる。江藤先生に一言も答えられない自分だけがそのときいました。」