嫉妬深く死者崇拝も許さないヤァウェ
p305
ヤァウェはエジプトやペルシャといった他の古代宗教の神と異なり、「他の神を嫉妬する神」であった。そして、此岸の出来事にはおおらかだった他の神と異なり、もろもろの世俗事にいちいち干渉する神であった。このことが、キリスト教が中東の地方宗教から世界宗教になる後々まで深大な影響を持ち続けた。
p359
エジプトでは賦役国家の現世的官僚制が古来からの氏族の意義を破壊してしまっていた。その結果エジプトでは、祭司たちによる死者崇拝が氏族の血統崇拝より上に聳え立った。
これに対してヤァウェ信仰による戦争連合として多くの氏族が結びついた古代イスラエルでは、中国やインドの祖先崇拝もエジプトの死者崇拝も成立しなかった。
もしイスラエルにおいて死者崇拝が成立していたならば、それは氏族の権力と儀礼的威信を極度に高めただろう。その場合、おそらくユダヤ民族の客人民族的意識はカースト形成へと導かれたかもしれない。
しかし現実はその方向に進行しなかった。エジプトと国境を接し、つねに捕囚の危険にさらされていたことが、ヤァウェ連合氏族をエジプトの死者礼拝こそ敵であるという方向に向かわせた。エジプト風の死者礼拝はパレスチナでもよく知られていたが、それは嫉妬深いヤァウェにとって明らかに危険な競争相手だったのである。
ヤァウェ宗教の死者礼拝嫌悪は、エジプト的奥義や黄泉的秘祭への対決思想として、非常に古い時代からの旧約文学全体のいたるところに痕跡をとどめている。そして出エジプト期の前後の時代になるとこの嫌悪感はさらに増強され、死者礼拝へと導きそうなそれら一切の章句はすべて突如中断され、放り出され、顧みられなくなってしまった。
(出エジプト記のエジプト軍の壊滅は、山上の火の柱、雲の柱、火の灼熱などの現象が記述されていることから、火山現象とそれに伴う紅海の突発的な津波、突発的な退潮によって発生した事件であることが確実である。)(p307)
中東では神像製作技術が未発達だった
p369
エリヤ、アモス、エゼキエルなどの有力イデオローグが死者礼拝に関する何らかの彼岸的思弁を一つでも許容したならば、当時民衆の間に広まっていたエジプトのオシリス礼拝、あるいはそれと結びついた復活の密儀教がヤァウェ礼拝を押しのけてしまっただろう。
だが、ヤァウェ祭司たちのそうした心配は杞憂だった。祖先の知恵そのものを図像化し栄光の記憶を保存するということに対して、古代のイスラエルとエジプトでは、社会の技術発達の段階が比較もできないほど違っていたのである。
p391-2
私たちは、イスラエル連合のヤァウェ礼拝が無神像で行われたことを伝承や発掘によって知っているが、このことはイスラエル連合の神観念が思弁的に高度なものであったからではない。むしろその正反対であって、ヤァウェが受容された時代のイスラエルでは、エジプトのような工芸的に高度な神像を持てなかっただけである。
これはヤァウェ宗教に固有のことがらではない。多くの原初期ギリシアや古いクレタの礼拝でもしばしば指摘できる。そしてどこの地域でも、自民族の技芸が周辺民族より劣っているとする考えは受け入れられなかったから、神像製作技術の未発達な地域では無神像であることが特別に神聖であるとされてきたのである。
つまりその礼拝形式では神は通常見えざる存在であらざるをえなかったし、ほかならぬこの不可視性から、その神に特有の尊厳と底知れぬ不気味さを備えざるをえなかった。そしてそれを変更すると悪い魔術にかけられるという恐怖があったのである。