エジプト大文化圏の辺縁にいたというユダヤ教の「幸運」
p409−14
古代イスラエル王国の政治的状況が憂慮すべき事態となるにつれて、どのような社会的不法行為や過失が神を怒らせたのか、また、どうすればヤァウェをなだめることができるのかが、ひろく一般に論議されるようになっていった。
それとともに、元来は王国の役人に過ぎなかったヤァウェ祭司に対し、ヤアウェの意志や贖罪されるべき過失を探知するという課題に立ち向かうことが求められていった。政治的運命の重圧が増すにつれ、贖罪の犠牲の意義とヤァウェの命令についての知識が社会全体の中で喫緊の課題となり始めた。
p445
レビびとが威信を獲得したのは、彼らのヤァウェの命令に関する純合理的知識によってである。すなわちヤァウェの命令に対する背反を贖うための儀礼の知識をレビびとが持っていたからである。
王も共同体全体もそのことに関心があったが、レビびとの私的顧客の関心ははるかに強いものだった。イスラエルの政治的苦境が増大するにつれてこの需要はますます強まった。私的顧客に教えることで彼らを苦境から救出すること、そのことこそが(現在でも)レビびとがトーラー(律法)を唱える意味である。
p463
紀元前六百年のバビロン捕囚期の前後に、政治的苦境が大きくなるにつれて、ヤァウェ祭司は民衆をエルサレムでの集中礼拝に導くようになった。そしてそれは副次的に、「ヤァウェから分ち与えられる犠牲の食事」つまり動物の屠殺と肉食が、イスラエル全土に拡大することにつながった。このヤァウェ祭司の個人的食事の世俗化は、過ぎ越しの食事に象徴される旧来の氏族の宗教的意義に対して、最終的な打撃を与えるものだった。
p476
特別な種類の性的決議論が、レビびとたちにあるわけではない。性的諸事象それ自身に関する古い自然主義的な無邪気さが、レビびとたちの間でだけ、肉体的露出に対する徹頭徹尾儀礼的な心配と結合しているにすぎない。
しかもこの結合は、われわれの市民的な羞恥感情とはいささかの関係もない。当時の祭司身分が培養したこの独特な儀礼的態度は、歴史的には北イスラエルの農民の性的狂躁道に対する嫌悪の中にその源泉が存在する。
じつはイスラム圏でも、ほとんど同じ事情がある。古代農民たちの性的狂躁道はイスラム圏でも同じだったが、知識階級であるイスラムの祭司たちが裸たることに強い反感を示したために、皮肉にもこの地方は現在につながる繊維産業の担い手となったのである。
辺縁地域だからこそ、「世界の進行」に敏感だった
p483
旧約聖書のさまざまな物語は、時として強大だった王権に圧迫されながらも軍事力を持った大氏族が健在であったことの証明である。また、王権に対して精神的に独立し、しかも古い連合戦争神の威信ゆえに王が無視できない職業的なヤァウェ祭司たちも旧約の物語の担い手であった。
王権に批判的なヤァウェ主義を支援したもう一つのグループは、土地財産を持って定住している敬虔な平信徒たちだった。対外政策の失敗によってひとたび王権の威信が動揺すると、彼らは宮廷を公然と批判した。いまも現存する、王国以前の時代に関する古い諸伝承の集成を引き受けたのは、この平信徒サークルと彼らが支えていた純ヤァウェ崇拝者だった。
p507-9
古代の土俗信仰の馬鹿馬鹿しさを排除した宗教改革的思想がまず孕まれたのは、バビロン、アテナイ、アレキサンドリア、ローマのような大文化の中心地ではない。捕囚期以前のエルサレム、後期ユダヤ時代のガリラヤ、後期ローマ時代の属州アフリカといった文化地帯の辺縁地域においてであった。
その理由は明白である。新しい宗教的な思想が可能となるためには、この世界のもろもろのできごとに新鮮な驚きを感じるひとびとの心が不可欠だからである。文化に飽和している人々は周囲の世界に驚嘆する能力を失いやすい。大文化の辺縁に生活する人々にこそ、世界の進行について驚嘆する能力は与えられる。
イスラエル人にこのような問題提起の機縁を与えたできごとが何であったのか――、それは打ち続く解放戦争と王国の成立、賦役国家と都市定住文化の成立、諸大国の威嚇、とりわけダビデ・ソロモン後の北王国の崩壊と栄光の最後の名残りである南王国の同じ運命である。
そしてそのあとにバビロン捕囚が来た。連合戦争神ヤァウェの威信は、こうした大文化の辺縁に生活する人々の艱難の中で創造された。
p527
イスラエルに特別の政治的惨禍が生じるのはなぜなのかという問題に対して、レビびとたちは次のように考えた。民がヤァウェの儀礼的・倫理的諸義務を履行するかぎりにおいて、連合戦争神としての古い約束を実行してくれる。イスラエルに惨禍が起きるということは民が義務を履行しなかったからだ、と。
・・・このような問題提起と解決の模索がなされたことは、捕囚を前にして、それまでの素朴な祈りや反省や生贄や占星術的決定論ではあきたらない何らかの合理的神義論を求める要求が、当時の社会的空気の中に現れていたことを示している。