アクセス数:アクセスカウンター

マックス・ウェーバー 「古代ユダヤ教」(岩波文庫・下)3/5

 ユダヤの終末待望論は、現世の霊的問題に対する徹底的な無関心を生んだ
 p752-4
 インドでは、現世の意味いかんを問う問題、すなわち苦悩と罪責を負わされた破れやすい人生の無常や、その矛盾葛藤を正しく弁明すべき根拠は何であるかという問題は、あらゆる宗教的認識に決定的な刺戟をあたえた問いだった。
 しかしイスラエルにおいてはそうした問い自体が、どこにも提出されていない。預言者やその聴衆を神へ駆り立てたのは、意外なことに、現世からの魂の救出、救済を求める要求では絶対になかったのである。
 イスラエルでは仏教の聖者に見られる魂の静かさとかが求められることは一切なかったし、ある種のグノーシスや世界解釈というものも、イスラエルでは問題にならなかった。
 それは、ヤァウェの本質が彼岸的、超感覚的なものを一切含んでいなかったからである。ヤァウェの世界支配の仕方は現世的に理解可能なものだったのであり、被造物の水準とはたとえどんなに離れたものだったにせよ、原理的には探求可能なものであった。
 p761
 この結果、心霊問題について驚くべき力の節約が生じたことを認識しなければならない。たとえばプロシアユダヤ人鉄血宰相ビスマルクは一切の形而上学的詮索を排除しながら、ベッド脇のテーブルには詩篇がつねに置かれていた。宇宙の意味いかんを詮索することを好まないこの心性は、個人だけのものではなかった。ユダヤ人に影響されたほとんどの宗教共同体は歴史的に、各種の形而上学説に強く抵抗し続けた。
 p783
 ヤァウェ信仰の人々が待望する終末の迫真性は、その生活態度に対してまことに決定的であった。預言者たちのユートピア的現世無関心は、結局この待望思想からのみ説明できる。ちょうどイエスカエサルのものはカエサルに与えよと勧めたり、パウロが人は自分の今の職業にとどまるがよい、独身者も既婚者もその今の状態にとどまれと勧めたのも同じ理由による。
 終末はすぐに迫っているのであり、これら現在のことがらは完全にどうでもいいのである。

 現世無関心が
 ユダヤ倫理のパーリア的性格も決定的にした

 p802
 イスラエルの困窮は徹頭徹尾政治的災害であり、この困窮は予言者の中で驚嘆すべき迫真性を持つ終末待望論になっていった。そしてユダヤ民族のパーリア的性格は、この終末待望論がイスラエル伝来の儀礼的諸習慣と共働したことによって決定的になった。
 p815
 ヤァウェがますます天と地の諸民族の主権者になったいまはじめて、イスラエルは「選ばれた民族」になったのである。イスラエル人の特殊儀礼的・倫理的な諸義務と諸権利はこの選民思想の上にこそ成り立っているのであり、それ自身としてはまったくナイーブな対内・対外道徳の二元主義にすぎない。
 二元主義道徳の一例を挙げよう。古代イスラエルでは利子取得の禁止は、「完全イスラエル人でありながら零落した貧しい兄弟」の搾取だけを排斥したに過ぎない。申命記は宗派上の外国人に対する利子取得をはっきりと許可している。また、モーセに対し、ヤァウェはエジプト脱出のときにエジプト人の財産を横領し着服せよと命じている(p807)。
 p821-2
 このような古代イスラエルの「族長の倫理」は、周知のように 「誰をだまそうか」 というすこぶる鼻をつくような処世訓を含んでいた。このことが、以後二千年にわたって各方面に影響を及ぼし、ユダヤ人の経済的行動様式に対して広汎な帰結をもたらした。
 たとえばユダヤ民族のパーリア資本主義は、純粋の貨幣高利貸や商業で成功を収めることと並んで、ピューリタニズムが嫌悪した国家・掠奪資本主義の諸形式にも通暁する人々を育てた。そういうことはユダヤ人にとっては、ヒンズー教のパーリアカーストと同じように、倫理的には原理的に考慮する必要のないこと、どっちでもいいことなのであった。
 ユダヤ人にとっては、生活の中で信仰の確かさを確証する「霊的な」場所は、「現世」とくに経済を合理的に支配するというような場所とは全然異なる領域に存在するからである。