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丸山真男 「原型・古層・執拗低音」(丸山真男集 第十二巻 岩波書店)

 p132-3
 日本ぐらいいつも最新流行の文化を追い求めて変化を好む国はないという見かたと、日本ほど頑強に自分の生活様式や宗教様式(あるいは非宗教様式)を変えない国民はないという、全く正反対の見かたがあります。
 ・・・・このことをキリシタンの渡来とその「絶滅」の運命について、早くからイギリスのジョージ・サムソンという有名な日本史家が指摘しています。「いかなる国民も一五世紀のキリシタンの教えをこれほど喜んで受容する容易のある国民はいなかった。けれども他方、またこれほど伝統を頑強に固持した国民はいなかった。」
 すくなくともカトリック宣教師の渡来後半世紀の間に、日本でキリシタンは四、五○万人以上の信者を獲得した。ところが、禁教以後はキリシタンの痕跡がこれほどみごとに絶滅された国は東アジアにはありません。中国でも朝鮮でも、キリスト教の渡来に対する抵抗は日本よりはるかに強かったが、いったん浸潤すると何度も弾圧されているにもかかわらず、政府に対する反乱や独立運動においては、クリスチャンがその中核になっています。
 大文明に併呑されるには「遠く」、見放されるには「近い」 絶妙の位置
 内田樹の「日本文化=中華辺境文化」論の骨格の大半は、この丸山の論文に拠っている。内田はもちろんそのことを告白している。
 p139-42
 中国大陸の文化は、有史以来世界で一番に高い文化圏といっていいかと思います。日本はその高度な文化圏のすぐとなりにあって、かつ対馬海峡というものを介して、不断にその刺激を受けてきました。
 仮にこれが朝鮮のように大陸と地続きだとします。すると、これはあらゆる文化接触の場合にそうなのですが、土俗文化は隣接する高度文化にほとんど併呑されてしまって同じ文化圏になってしまう。ヨーロッパ大陸とイギリスの間にはドーバー海峡がありますが、ドーバー海峡対馬海峡とは違い、征服者にとってはほとんど障害にはならなかった。じじつシーザーは紀元前にドーバー海峡を渡ってブリタニアを征服し、以後イギリスはそれまでの北方土着文化を捨てギリシア、ローマ文明を基本とするヨーロッパの大国として何食わぬ顔をしています。
 ・・・・・・となりの朝鮮の場合。本家本元の中国では満州族によって明が滅ぼされ、「蛮族」が中国を統一して清になりました。清は漢文化にコンプレックスがありますから、ある意味では前王朝以上に中国の文化的伝統の学習に熱心で、儒教を振興させ科挙制度なども整備します。
 ところが李氏朝鮮に言わせると中華の伝統――堯瞬の道の光輝ある伝統は清以後は明らかに自分のほうに移ったということになるのです。つまりありていに言えば、過去自分がとなりの文化圏に呑み込まれたことを「無意識の中でも」忘れてしまって、イギリス人がヨーロッパ文化を自分たちの伝統であるとするのと全く同じく、自分たちは過去代々東アジア儒教文化圏の主要メンバーであったのだと主張するのです。・・・・・・・・・・・。
 今度は、朝鮮と反対のケースとして南西太平洋諸島をとって見ます。こういう島になると大陸文化からあまりに離れているので、文明民族の間には見えにくい「野生の」文化が保存されている。(第二次大戦後向かうところ敵なしだったサルトルを一刀両断にしたレヴィ・ストロースの「野生の思考」は、わたしたちが陥りやすい「未開民族」観を超越しようとする「普遍理論」構築のこころみです。)それはともかく大陸文明からここまで地理的に離れると、異質文化の圧倒的な刺激にさらされないので、文化的変容が少なく、悪くいえば「停滞性」が支配してしまう。(あえて繰り返しますが、ここで「停滞」とは「未開」ということではなく、他からの影響による変容が少ないという意味です。)
 そう考えると、日本は朝鮮の運命をたどるにはあまりに中国から遠く、南西太平洋諸島のように「停滞」するにはあまりに中国に近いという位置にある。そびえ立つ「世界文化」から不断に刺激を受けながら、それに併呑されない、そういう絶妙の位置にあることになります。
 朝鮮は洪水型といい、日本は雨漏り型といえるのではないか。洪水型は、高度文明の圧力に壁を流されて同じ文化圏に身も心も入ってしまう。南西太平洋諸島になると、文化の中心部から「無縁」になってしまう。ところが日本はポツポツ天井から雨漏りがしてくるので、併呑もされず、無縁にもならないで、たとえば律令制度は「基本制度」として受け入れても、やがてこれに「自主的」に対応し、改造措置を講じる余裕を持つことができる。
 これがまさに、「よそ」から入ってくる文化に対して非常に敏感で好奇心が強いという側面と、それから逆に「うち」の自己同一性というものを頑強に維持するという、日本文化に二重の側面があることの理由――少なくとも非常に関係のある地政学的要因なのではないでしょうか。・・・・・・・・。
 これは何も外来思想の「修正」のパターンとか、そういう「高級」なレベルの話ばかりではありません。一般的な精神態度としても、わたしたちはたえず外を向いてきょろきょろしている。きょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらないのですね。そして或る人たちは、「自分はきょろきょろなんかしていない」と言い張るのですね。その「言い張る」こと自体を「きょろきょろしている」というのですけれど・・・・・・。