日本は百済の植民地だった可能性が高い。
「任那日本府」は、日本を管理するための中央政府の出先機関ではなかったか。
p167−9
いわゆる皇国史観は1945年の敗戦によって公式には廃棄された。しかし今の私たちも、日本の歴史を考える場合、日本列島には大昔から日本人が住んでいて日本という国をつくっていたということを何となく暗黙の前提にしてはいないだろうか。
そしてそのような「日本人」が朝鮮半島に出かけて行って、百済や新羅や高句麗の国々といろいろな関係を持ったと思っていないだろうか。その結果、任那を支配して日本府をつくったとか、そのあと百済と新羅を臣従させたとか、5世紀には高句麗と戦って敗れたとか。
でも、ちょっと立ち止まって考えると、これらのことはどうもおかしいのではないか。当時から何と言ってもアジアの中心は中国であり、中国が直接的にも間接的にも日本列島に多大の影響を及ぼしていたはずで、古代においては、中国により近い朝鮮半島の人たちのほうが、当然、文化的にも軍事的にも日本列島の人たちより優位に立っていたと考えられる。
それなのに、任那に日本府があったかどうかは知らないが、もしあったとしても日本軍が半島に攻め込んで日本府をつくったというと、あたかも日本が半島の一部を植民地にしたかのようであるが、これはどう見ても軍事的に無理な話ではあるまいか。事実は逆であって、文化的に優勢な百済が日本に植民地を持っており、任那には百済政府が日本列島の植民地を管理するための出張機関をおいていたのではないか。
また、私たちは百済や新羅の人たちが数多く日本に帰化したということを、これもなんとなく教えられたような気がするが、じつは間違いではないだろうか。古代日本に原日本人か純粋日本人かがもともといて、そこへ外国人である百済や新羅の人たちがやってきて帰化したように聞こえるけれども、果たしてそうだっただろうか。
663年の白村江での大敗以前の古代日本には、主として朝鮮半島から、そのほか大陸から、そして少数ながら東南アジアや南洋諸島からやってきた人たち、その子孫たちが全国的統一されることなく部族とか豪族とかのグループをつくって、ばらばらに雑居していたはずである。古代帝国が成立する前の中国を考えてみても、日本の実情はそんなところであったと思われる。
その中で最も大きく有力な豪族が今でいう「大和朝廷」だったのではないか。その大和朝廷に属する人たちも、近隣の部族や豪族を自分たちとはまったく違う「外国人」とみなしていたはずはなく、自分たちと百済の人たちを区別していなかったと考えるのが妥当なはずである。
この時代のことは断片的資料から推測するしかないが、「大和朝廷」は文化的・軍事的に優勢な百済の支配下にあったとも考えられるし、あるいは中国のある勢力が半島の他の国々とともに百済と「大和朝廷」を同時に支配していたのかもしれない。
いずれにせよ、百済と「大和朝廷」が密接に結びついていたのは確かだと思われる。白村江の戦いとは、日本が日本とは別の国の友好国・百済を朝鮮半島の地で助太刀したのではなく、日本と百済は同じ一つの運命共同体であって、一方のある地域が外国(唐と新羅)に侵略されそうになったから、別の地域から軍隊が駆けつけたということではなかったか。
当時の「大和朝廷」はあちこちに服従しない諸勢力を抱えており、いかに友好国とはいえ、玄界灘をわたって助けにゆくほどの余裕はなかったはずである。百済が外国ではなかったからこそ防衛しようとしたのではないか。あるいは、百済が日本列島の植民地の軍隊を呼び寄せたという見方も成り立たないではない。
*飛鳥時代またはそれ以前、百済人を主として多くの人々が朝鮮半島から日本に来ているが、話が通じなかったとか通訳を必要としたということが日本の史料にはぜんぜん出てこない。百済語と「大和朝廷」語は、方言ぐらいの違いしかなかったのではないか。
いっぽう百済と新羅は言語の異なる異民族であり、新羅語が現在の朝鮮語の祖語になったと思われる。現在の日本語と朝鮮語は語順こそ同じだが共通の語彙が非常に少なく、仮に同じ祖語から分岐したとしてもそれは3000年以上前のことと言われている。したがって、1500年前に日本列島の各地ですんなり溶け込むことのできた百済人の言葉は現在の日本語と親和性が高く、逆に、そのさらに1500年前に分岐していた朝鮮祖語を話す人々とは会話がむずかしかったに違いない。百済が滅んだ以降朝鮮半島では民族の移動はなかったから、新羅語が現在の朝鮮語の祖語になったことは確かだろう。
*ちなみにだが、いま私の住んでいる福井県北部の方言と韓国語はイントネーションがきわめて似ている。福井方言では分節ごとに最後の母音を強く発声する(例えば、「わたしは、京都へ」と言うときは、「わたしわあ、京都ええ」と発声する)のだが、韓国大統領の公式発言などを聞いていると、ほんとうに似ていると思う。使用する語彙は短期間に変化するがイントネーションの変化はきわめてゆっくりしているというのが一般的な考え方である。
また、第26代継体天皇が百済出身であることは今上天皇も認める、日本古代史の定説である。彼は、ほぼ1500年前、百済の勢いが危うくなり始めたころ、日本海流に乗って福井に上陸し、滋賀から奈良に入り、大和の大王になった。