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昭和天皇が吉田内閣を飛び越して、米軍の日本駐留継続を直接訴えかけた
1996年、豊下楢彦は著書『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交』によって、それまで広く共有されてきた歴史認識を大きく更新した。共有されてきた歴史認識とは 「1951年の安保条約は米国が圧倒的な国力差を利用して、米国の利害を日本に押し付けたものである」というものである。それが更新された。
豊下の研究は、天皇制の存続と平和憲法(その裏面としての米軍駐留)という戦後レジームの二大支柱はワンセットである、という従来から意識されてきた統治構造の成立過程を白日の下にするものであり、その過程において昭和天皇が「主体的」に行動していたことをはっきりと示すものであった。
豊下によれば、当時の外務省は決して無能ではなかった。外務省は安保条約が極端に不平等なものにならないようにするための論理を吉田首相のために用意していた。しかしそれにもかかわらず、吉田の日米安保交渉は拙劣なものになってしまった。それは、ほかならぬ昭和天皇(および近衛文麿らの側近)こそが、共産主義勢力の外からの侵入と内からの蜂起に対する怯えから、自ら米軍の駐留継続を希望し、ダレス国務長官と接触するなど具体的に行動したからである。
日米安保条約締結交渉にあたって決定的な重要性を帯びたのは、日米のどちらが米軍の駐留を「希望」するか、であった。無論、「希望」を先に述べた側が、交渉における主導権を相手に渡すこととなる。したがって、外務省と吉田首相は、朝鮮半島情勢の切迫を背景に、米国にとっても軍の日本駐留が死活的利害であることを十分に認識したうえで、「五分五分の論理」を主張する準備と気構えを持っていた。
そのところへ、(外交経験などあるはずもない)昭和天皇がときの首相吉田やマッカーサーを飛び越してまで、米軍の日本駐留継続の「希望」を訴えかけてしまった。そしてもちろん、「五分五分の論理」という立場は放棄されてしまった。その結果、1951年の安保条約は、ダレスの最大獲得目標だった「望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を保障した条約」として結ばれることになった。また、これらの過程で、沖縄の要塞化、つまりかの地をふたたび捨石とすることも決定されていった。
要するに、昭和天皇にとっては安保体制こそが戦後の「国体」として位置付けられたのだ。そしてこのとき、永続敗戦は「戦後の国体」そのものとなった。
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感激の内に犠牲を強いた<国体>を自分で壊してしまった
戦前には治安維持法によってその変革を試みようとするものは死刑に値すると定められていた「国体」とは、そもそも一体何であるのか。戦前、特異な国体論を展開した里見岸雄が、吉田茂も決して触れようとしなかった国体の核心を赤裸々に抽出していることを、片山杜秀が紹介している。
片山の整理に従えば、里見は国家社会を二つに分類している。ひとつめは「利益社会」で、世間一般の欲望・欲求を追究する社会である。里見は言う。しかし、国家が存続するためには、そうした欲望・欲求を捨ててまですすんで国家を護ろうとする動機が国民に湧かなければならない。それを作り出すのが、最高の統治者でありながら決して威張ることなく、皇祖皇宗・天照大神に頭を垂れる謙虚な君主=天皇に対する臣民一同の<感激>である。この<感激>が高まることにより、この素晴らしき世界=を、自分の命を捨ててでも護りたいという動機が生じる・・・。
そして、敗戦によって途方もない打撃を受けたのは、この<感激>にほかならなかった。その中心には、まぎれもなく、昭和天皇の言動がある。それは、<感激>の世界の中心にいるのが、「内外の共産勢力」にひたすら怯える生身の人間であった以上、当然のことであった。