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高橋和巳 『憂鬱なる党派』(新潮文庫)1/2

 1965年、著者34歳のときの作。1962年『悲の器』で登場し、63年『散華』、64年『我が心は石にあらず』、65年『邪宗門』と『憂鬱なる党派』を書いた。71年に直腸がんで亡くなるから作家として活動は10年にすぎないが、倒れるまでの創作意欲は旺盛だった。小説に使う言葉としてこなれているとは言えない観念語を多用しながら、主人公が破滅してゆく暗い話をたくさん書いて、多感で考えすぎの学生たちの心を揺さぶった。

 高橋が世に出る前の日本は、共産勢力を恐れたアメリカによる天皇制の維持、西側とだけの単独講和、米軍への沖縄の提供、自衛隊による再軍備日米安保条約の締結等々、世界の王者となったアメリカへの従属が年ごとに強まり、60年安保条約改定によってその道筋が確定した時期だった。
 政界では岸信介賀屋興宣A級戦犯が復帰し、経済界では解体されたはずの財閥が1960年までには再結集を果たし、いつの間にか戦前どおりの大規模な企業グループを形成した。いずれもアメリカ政府がソ連と中国の台頭を心底から恐怖し、日本をアジアの防共ラインの最前線に位置付けたからであるのはいまさら言うまでもない。

 敗戦直後、GHQ指導で思想、表現、結社の自由を認める平和憲法や農地改革法、労働基準法などが成立したことは、高等教育を受けた学生に「進歩的・合理的社会」の遠くないことを期待させるに十分なものがあった。それが朝鮮戦争を機に、政治・経済のすべての軸がすべて右回転を始め、それとともにマクロな国民経済は高度成長路線に乗り始めた。1953~4年には個人所得がほぼ戦前の水準を回復したらしい。所得が回復したということは、日本国民が自信を持ち始めたということでもある。

  平均的日本人はもともと他と激しく争うことをあまり好まない。知人友人との生活水準の差を気にし、共同体の中で<ほぼ真ん中>の暮らしを維持できることに満足を見出す人々である。そうした私たちが、昔の生活レベルをあっという間に回復し、あげくに労働組合が適法になり農地まで解放されれば、世の中は少しずつ進んで行っているとも言えるのではないか。全体として日本の政府はいいことをしてくれているのではないか・・・・・・、総体としての日本国民がそのように考えた時代だった。(それから70年たった今も私たちはそう考えている。)
 しかし情況を、統計的日本人のようには、簡単に割り切れない人たちもいる。そういう人たちが存在し、アメリカ属国化の進行を止める行動を起こさなければ、自衛隊はたちまち軍隊として編成されただろうし、生産至上主義の大企業は水俣や富山、四日市、新潟をはるかに超える環境汚染をやめなかっただろう。