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丸山真男 「政事の構造」(丸山真男集 第十二巻 岩波書店)

 古代以来「令外の官」が実権を握ってきた日本政治の特殊性
 p230-34
 大化の改新による「天皇親政」の建前の変質はまず摂関制の登場に現れます。摂政も関白も名前は中国から来ているのですが、それはいずれも天子幼少のときとか病弱のときとかで、あくまで臨時の官職でした。日本でも摂関は令外官、つまり正式の官職ではなかったのですが、これが時代が下るにしたがって内大臣とか蔵人所、参議、検非違使とか、平安時代以後、律令制下の実権の所在はほとんど令外官にあるということになってしまいました。
 しかしながら摂関制が定着しても「正統性」のレベルは相変わらず皇室にあります。そして政策の最高決定者であった摂政関白は 「後ろ見」という名で呼ばれました。藤原氏は皇室の外戚として摂関の地位を独占しましたが、建前としては正統性の保持者である天皇の「後見人」に過ぎません。・・・・・皇室の内部ではやがて「院政」が登場しますが、この「院政」もやはり「後ろ見」と呼ばれました。・・・・・・・。
 そして面白いことに、こういう律令制における令外官「制度」にあたるようなパターンが、鎌倉の武家政治において完全に再生産されてくるのです。鎌倉幕府ができると、幕府のことを『愚管抄』では「後ろ見」と言っています。
 しかし、幕府はもちろん、京都の朝廷に対する後見者でもなんでもなくて、ほとんど独立の権力体です。・・・・・アジアのほかの地域では全部中国をモデルにした中央集権官僚制なのですが、日本だけが朝廷から実質的に独立した武家政権ができた。もちろん統治の正当性は、征夷大将軍という官職名が示すように、あくまで朝廷が持っていたのですが、統治の実権は幕府にあり、律令制はたんなる名目に堕していくほかありませんでした。
 独裁政治は無限回避されるが、為政者責任も無限回避される
 そして今度は鎌倉幕府も内部に目を移してみますと、同じ正当性と統治実権との二元的分離がここでもまた再生産されました。源氏の将軍は三代しか続かず、北条氏が「執権」となります。執権の直接的意味は実権を「とる」ということですが、ここでは将軍と鎌倉御家人とのあいだに介在して、その「なかをとりもつ」役割を果たす、京都の公家との媒介者でもあります。幕府は公家に対して「後ろ見」の関係にありますが、北条執権はその将軍の「後ろ見」をする・・・・、こうして同じパターンが幾重にも再生産されるわけです。・・・・・・・・。
 日本では「政事」は、まつる=献上する事柄として臣のレベルにあり、臣や卿がおこなう謙譲ごとを君が「きこしめす」=受け取る、という関係にあります。そこでは、一見逆説的ですが、政事が「下から」定義されていることと、決定が臣下へ、またその臣下へと下降していく傾向は無関係とは思われません。これは病理現象としては決定の無責任体制となり、よくいえば典型的な「独裁体制」の成立を困難にする要因でもあります。