第17講 諸領域における権力偏重
p121-6 日本に宗教の権威なし
福沢は古代からの神道について、<元来・・・・神仏両道なりと云ふ者あれども、神道はいまだ宗旨の体をなさず。・・・・往古にその説あるも、数百年の間、既に仏法の中に籠絡せられて本色を顕わすを得ず>と、本来の宗教とは認めず、幕末からの平田神道についても、維新政府の成立の際にいわゆる「草莽の国学」となって“瞬間的に”祭政一致の建前になっただけであるとして、その役割をてんで問題にしていません。
そこで福沢にとっては日本で宗教らしい宗教といえば仏教だけになります。その仏教のことを論じるにしても、歴史家というよりも啓蒙的文明論者であった福沢の目には、仏教の教義そのものよりは日本の歴史の中で朝廷や武家政権と仏教がどういう位置関係にあったのかが最も気になるものでした。
ですから福沢は、多くを負っているギゾーにならって、帝政ローマ末期のキリスト教の役割を<もしこの時代にキリスト教なかりせば、ヨーロッパはことごとく禽獣の世界なるべし>と、聖職者集団の胆略に率直な感嘆をあらわすのですが、その一方でキリスト教教義そのものは「妄誕」であるとしりぞけています。キリスト教聖職者集団は末期ローマ帝国と武力で戦って勝利しただけのことである、と。
しかし、福沢はキリスト教の教義には動かされなかったものの、ギゾーが説く「肉体を制する」俗権と「精神を制する」教権の分離という西欧文明の思考形態には大きく動かされました。そしてそのうえで、ギゾー『ヨーロッパ文明史』で、「1077年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリー7世に泣いて哀れみを乞うた次第」を読んで、西欧文明における宗教権力の大きさを実感します。『概略』には<恰も天上天下の独尊なるが如し」と釈迦についての俗言を添えるなど、「俗権を支配する教権」に対する福沢の感じ入り方はただ事ではなかったようです。(p34付近)
これを一方、日本にふりかえると、皇室・政府が名僧知識に爵位を授けるということが行われながら、社会はこれを何もおかしいこととは思っていない。福沢は宗教そのものにはさして興味がないのですが、それにしてもこれほど宗教が俗権に対して独立性がないことは国民そのものの自主独立性を疑うに足る証拠に見えたといえます。
当時の知識人でも、こういう俗権と教権の関係を問題にした人は、福沢以外にはあの森有礼だけです。森は、『日本における宗教の自由』という英文の意見書で、日本には良心の自由という観念がなかったと述べています。
わたしの知る限りでは、鎌倉仏教だけが、初期の浄土真宗はとくにそうですが、日本の仏教史のなかでは例外的に、政治権力に対する自立性の意識が強かった。道元は紫衣を皇室からもらったのですがそれを一生身につけなかった。固辞したあげくに、受けるだけは受けたのですが、そのことについて自嘲的な詩を書いています。
p151-2 武人に独一個の気象なし
武士のエートスのイデオロギー批判をする中で、福沢は<日本の武人に独一個人の気象なし>と述べ、武士の名誉心の動機は(家とか君とかいう)「一個人の外部」に由来するものであるとしています。そして「独一個人の気象」に「インディビデュアリティ」とわざわざ言語を注記しています。
少し脱線しますが、ここでこの注記に関したことをすこし採りあげます。このインディビデュアリティという言葉は、おそらくJ・S・ミル『自由論』からとっています。ミルはその中で、「いまドイツでは<個性>というものが国家権力に対抗するものとして高い価値を与えられている」と書き、著者のフォン・フンボルトをきわめて高く評価しました。
なぜミルが個性を強調したかといえば、デモクラシーの発達とともに、凡庸の支配が出てくる傾向が避けられないからです。多数の横暴と同じことで、ミルはそれを憂えた。社会の平等化とともに人間の平均化現象がおこる。これはトクヴィルの名著『アメリカン・デモクラシー』における大きなテーマであり、(「イギリスの支配からの自由と、同胞間の平等」を国の出発点としたという成立事情を持つ)アメリカではどうしても避けられない現象です。
個性と一口に言いますが、これは19世紀に入ってロマン主義の台頭とともに前面に出てくる主張です。丸山真男なら丸山真男という人間が二人とはこの世にいない、というのが「個性」です。
ただJ・S・ミルが『自由論』でいう個性は、このロマン的自我の個性というよりは、世論の圧力や多数意見に盲従しない個人の思想・言論の自由が主旋律であり、福沢のいうインディビデュアリティあるいは独一個人の気象というのも、そんな厄介な詮索の上で使っているのではなく、今日の言葉でいえば、個人の自立性というほどの意味です。