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宮崎市定 『西アジア遊記』(中公文庫)2/2

 十字軍はアラブの高度文明をねたんだローマ法王の国家的テロである
 p220-1
 イスラムの諸帝国は、いかにイスラム教を信心する念が深かったとはいえ、他宗教に対する態度は後世史家の指摘するごとく熱狂的ではなく、むげに他宗教を迫害する行動には出なかった。ただ10世紀ごろに起こったセルジュク・トルコだけは、その宗教的熱心度において本家アラビア人をしのぐものがあり、キリスト教に対する態度がそれまでのイスラム帝国と異なっていた。しかしながら、これをもって直ちにトルコ人が不当な圧迫をキリスト教徒に加えたというのは当らない。まして、これによって、かつての十字軍というヨーロッパ側の暴挙を弁明する根拠にはならない。
 十字軍は、ローマ法王の密命を受けたフランス北部アミアンの狂僧ペテロが、フランス民衆に対し、キリスト教徒がエルサレムで虐待されているというプロパガンダを行ったことに始まる。ローマ法王ウルバノ2世は、やがて自ら宗教会議の席上で悲憤慷慨し、聖地回復の軍を出すように要請した。
 このローマ法王の憤りの根底には当時のイスラム教神学に対する劣等感がある。9世紀から200年をかけてイスラム教神学はアリストテレス哲学を体系的に摂取していた。彼らの翻訳事業は本格的なもので、ギリシャ語とアラビア語の語彙の意味領域的な違いや文法構造の差異をはっきり意識し、アリストテレスの論理学を非常に深い次元でとらえていた(井筒俊彦イスラーム思想史』)。キリスト教神学はこのイスラムの文献を通じてはじめてアリストテレスを知った、そして驚愕し、焦り、妬んだというのが当時の実情である。
 ヨーロッパ各地に檄が飛ばされると数万の貴族・僧侶・平民が躍動してこれに加わり、行軍途中にある村々を略奪しながら東に向かった。その狼藉ぶりには、初めは法王に賛同していた東ローマ皇帝さえ恐れおののいてしまったと伝えられている。
 小アジア沿岸に上陸した第1回十字軍は正規の諸侯騎士団を中心に約30万。これだけの大軍であれば向かうところ敵なく、ニケアを陥れてトルコ人を虐殺し、シリアではアンチオキアの1万人を屠り、マラトン付近では10万人を殺戮した。1099年エルサレムを数週間にわたって包囲し落とした時は、7日間にわたって殺人を継続したという。
 災厄はイスラム教徒だけでなく、ユダヤ人にも及んだ。エルサレム在住のユダヤ人が隠れようとして逃げ込んだ教会堂には火が放たれ、全員が焼き殺された。エルサレム市内では少なくとも7万人が犠牲になった。付近のトリポリ、チル、シドンも同じ運命に見舞われた。そしてその廃墟の上にフランク大帝のエルサレム王国が建設された。

 欧亜にまたがる蒙古帝国の出現がルネッサンス以降の文明の土台になった p227-8
 ムハンマドは俗に右手に剣を左手にコーランを掲げてイスラム教を強制したといわれるが、この点にかけてはキリスト教も何ほども離れていない。十字軍の時代、西アジア、ヨーロッパの人民はなんらかの宗教を信奉してその共同体に加入していなければならないこと、あたかも絵具箱のチューブがなんらかの色彩を持っていなければならないようなものであった。
 そこに蒙古人が、東アジアから無色透明な人間として現れたから、西アジア人、ヨーロッパ人は驚いた。西方の人はこれを悪魔だと思って恐怖したが、その後の歴史を考えれば蒙古人は実は救世主だった。
 侵入にあたって蒙古人は他人の信仰に立入ろうとせず、立入る興味もなく、ただ政治的に屈服することだけを要求した。彼らは決して自分たちのシャーマニズムの信仰を被征服民に押し売りしなかった。軍事上は彼らはもっとも恐るべき人間だったが、宗教上はもっとも寛大な征服者だったのである。
 蒙古大帝国の出現は西アジアとヨーロッパの宗教的対立を解消させた。ヨーロッパ人は自由に帝国内を往来して通商に従事できるようになった。十字軍によって一時阻害されたアジア・ヨーロッパの交通は以前にもまして隆盛におもむき、ヴェニスジェノヴァなどイタリアの諸国はその繁栄を回復することができた。ヨーロッパ文明と世界最古の西アジア文明が融合し、世界の上に輝くようになったのは蒙古人侵入のたまものなのだ。蒙古征服がほぼ完遂された西暦1300年頃にイタリア諸都市においてルネッサンスの曙光が見られるのは偶然ではない。