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丸山真男 『「文明論の概略」を読む』下(岩波新書)1/3

 第16講 「日本には政府ありて国民なし」

 p75-80

<日本にて権力の偏重なるは、あまねく社会の中に浸潤して至らざるところなし。・・・今の学者あるいは政府の専制を怒り、あるいは人民の跋扈をとがむる者多しと雖も、細かに吟味すればこの偏重は社会の至大なるものより至小なるものに及び、公私に拘わらず、その権力、偏重ならざるはなし。>
 あらゆる組織体に段階があるという事実(=有様)そのものは文明の段階を問わない普遍的現象です。ところが上級者と下級者がたんに職務分担上の区別でなく、上級者の方が価値的に当然「偉い」となると、それはすなわち日本における権力の偏重になります。事実上の「有様」の違いだけでなく、それが「価値」の上下の差になっていることを福沢は日本文明の病理であるとして剔抉しているわけで、この「有様」と「価値」との区別は、『学問のすゝめ』でも人間の平等と国家の平等とを基礎づける際のかなめをなしています。

 そして、実際に一切の社会関係に権力の偏重があることが、男女関係からはじまって親子兄弟の家族内の権力の偏重、次に家族外の師弟主従、貧富貴賤、新参と古参、本家と分家といった「世間」での権力の偏重、それから次には大藩小藩、本山末寺、神社の本社末社といったすべての単位における権力の偏重があることを挙げていきます。

 ここには権力の偏重が実体概念ではなく、関係概念なのだということがよく示されています。特定の一個人が権力を「体現」しているのではなく、上と下との「関係」においてそうであるのだ、だから上に対してはペコペコし、下に対しては威張っているという「関係」がずっと下まで鎖のようにつながっている。わたしは一兵卒として広島の参謀部に勤務しましたが、普段はお偉い佐官級の士官が参謀将校の前でオドオドしているのを見るたびに、この福沢の卓抜な観察を思い出したものです。

 p110-1

 「くに」という言葉の多義性は近代日本のナショナリズムが振るった魔術的な力の秘密の源泉でもあります。「くに」はいくつにも相似形に重なった構造をしています。いちばん外に「大日本国」という国がある。その中に出羽の国とか播磨の国とかいう場合の「クニ」がたくさんある。さらに今日でも「クニに帰る」という場合のように、郷土という意味の「クニ」が最小の単位をなしています。これらが相似形をなして重なっているところに、自分に一番近いクニに対する自然の愛着心をいちばん外側の大日本国に対しても比較的たやすく動員できる理由があります。
 むろんたとえば英語のカントリーという言葉にも、こういう多層性はあります。しかし日本語ではさらに驚くべきことに政府も「クニ」なのです。「クニ」の支出によって、という場合の「クニ」は政府をさします。カントリーが同時にガヴァメントをも指すわけです。英語のカントリーにはガヴァメントの意味はもちろんありません。日本の「くに」という言葉が持っている魔術というのは、このことです。 

 けれども同時にこの魔力は「ネーション」の意識のおどろくべき低さと隣り合わせになっています。「くに」への依存性、所属性の意識は非常に強いのに、その反面、この国は俺が担っているのだ、おれの動きで日本国の動向も決まるのだ、という意識は非常に乏しい。ですから、第二次大戦の末期に連合国が日本を見損なったのも無理はありません。
 あれほど愛国心の旺盛な日本人だから、本土上陸した連合国軍に対してさぞ猛烈なレジスタンスを続けるだろうと予想していた。連合国側の初期の占領政策はこれに対処するようにできていた。ところがこの想定が全く外れた。日本人の愛国心は強いというべきか弱いというべきか、という問いは今日でも生きています。