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内田 樹 「街場の文体論」(ミシマ社)2/2

 僕たちは知らずにエクリチュール(階層的に縛られた言葉)を使っている
 p121-25
 「エクリチュール」というのは、ある言語の中における「局所的に形成された方言」のようなものと理解してください。日本語で言えば「大阪のオバちゃんの話し方」、「「やんきい」中学生の話し方」、「地方議員の話し方」・・・・、といったものです。
 皆さんは「神戸女学院大学の学生らしい話し方」をしている。言葉づかいだけじゃなくて、服装も髪型も化粧も歩き方も、おしゃべりの話題も、うっかりするとその結論までも、ほとんど全部エクリチュールによってコントロールされている。たとえは悪いですが、やくざがいますよね。やくざが銀行員のような話し方をされては困る。服装も髪型も歩き方もやくざテイストで統一しなければならない。
 でもさいわい、日本の場合はエクリチュールは「おばさん」と「やくざ」と「やんきい」というような仕方で、水平的に多様化しているだけです。でもヨーロッパはそうじゃない。日本人には想像が難しいほど上下に階層化している。上層のエクリチュール、中間層のエクリチュール、下層のエクリチュールがはっきりと区別されています。
 どういうふうに違うかというと、上層のほうがエクリチュールの縛りがゆるいんです。ヨーロッパでは上層に行くほど階層的な縛りから自由になれる。「上の人」は何を着てもいいし、どんな言葉づかいをしてもいい。節度のあるふるまいをすれば「さすが優雅だ」と言われ、カジュアルなしゃべり方をすれば「気取らない人だ」と言われ、目立つ買い物をしたりスキャンダルを撒き散らせば「さすが奔放だ」と言われる。何をしても「さすが」といわれるわけです。
 逆に下層に行けばそういう自由はありません。話し方も表情も価値観も美意識も、その階層に「ロック」されてしまう。それ以外のふるまい方ができないように、お互いがお互いを監視しあう。逸脱すると厳しい罰が加えられる。下層階級なのにクラシック音楽を聴いたり、詩を読んだり、「趣味はクリケット観戦」とか言うことは許されない。ラップを聴いて、TVを見て、サッカー観戦することを強いられる。
 そして、本人たちはそんな風にお互いに自由度を制約しあっていることに気がついていない。仲間内でしか通じないジャーゴンで話し、自分たち特有のファッションで身を固め、自分たちの価値観を譲らない。そして仲間うちから「毛色の違った個体」が出てくると、きわめて非寛容に接する。
 わたし内田がヨーロッパ下層社会だけのことを喋っているのではないことは、理解できますね? 三宮駅前の広場でもいいし、セレッソスタジアムでもいいし、京セラドームでもいいんですが、皆さん身に覚えがありますよね。つまり階層社会というのは、単に権力や財貨や情報や文化資本の分配に格差があるということだけではなく、階層的にふるまうことを強いる標準化圧力そのものに格差がある社会だということです。

 階層再生産に強い力を発揮する文化資本
 p130−2
 文化資本というのは平たく言えば「教養」のことです。日本人は「教養」という言葉にほとんど政治的な力を感じませんが、ヨーロッパでは、教養は上・中・下の階層を再生産する強い力を持っています。
 とくに「音楽の趣味」はその筆頭です。これは、音楽の趣味のよい家庭に育つという形で身につく場合もあるし、家では誰も音楽なんか聴かないけれど、青年期になってから独学で音楽を聴き込んで身につける場合もあります。でも、この生得的な教養と努力して身につけた教養は、文化資本としてははっきりとした格差があります。
 その格差は、ある文化現象について 「ぼく、それ、知らないな」という言葉を平気で出せるかどうかによく現れます。子供のときから自然に身についた趣味のよさは 「彼らがその正当な相続者を持って任じている家族財産のようなもの」であるわけですから、音楽でも美術でも飲んだことのないワインでも、「あ、それは知らないな」と「ノンシャランス」に口に出せる。
 ところが非常な努力をして身につけた文化資本は、「禁欲主義」の馬脚をすぐに現してしまいます。見たことのない映画についても、聴いたことのない音楽についても、飲んだことのないワインについても「それについて知っている」ことをつい誇示してしまうのですね。そして誇示してみた後で、まるで先祖伝来の家産のように、豊かな文化資産を楽しんでいる「文化貴族のノンシャランスな表情」をみて、自分たちはこれからも文化資本をたぶん上昇再生産できないことを悟り、暗澹たる気分になるわけです。
 このごろ日本にも「お育ちのいい人」と「育ちはよくないけれど、努力してよい趣味を身につけた人」とではやっぱりたたずまいが違う、「お育ちのいい人」はたいしたものだというようなことをエッセイに書く人がときどきいます。でも、こういうことを書くのはほぼ一○○パーセント「お育ちのよくない人」なので、そういう話は「するだけ野暮」ということになっている。
 常識的にはたしかにそうだと思いますが、それが高い文化資本に対する嫉みであって、自分たちの低さにまで引きずりおろそうという意図から発したものであれば、話は別になります。階層的にふるまうことを強いる標準化圧力がこの場合もかかっていないかどうかのチェックはいつも必要だと思います。

 「宛先」のはっきりしたメッセージは、届く
 p177
 例えば教室で、絶対に誤解の仕様がないメッセージというものがあります。先生が「後ろのほう、聞えますか?」と言ったら、学生は「それを言うことであなたは何を言いたいのか」と解釈に悩む必要がありません。言語学の用語で、このような「メッセージの読み方を指示するメッセージ」のことをメタ・メッセージといいます。
 「伝わるメタ・メッセージ」 のもっとも本質的なことは、それが「宛先」を持っているということです。それが自分宛のメッセージだとわかれば、それがたとえどんなに文脈不明でも、意味不明でも、人は全身を耳にして傾聴する。傾聴しなければならないと「あらかじめ」分かっている。もしそれが理解できないものであれば、理解できるまで自分の理解枠組そのものを変えなければならない。それは人間の中に深く内面化した人類学的命令なのです。
 赤ちゃんは自分の鼓膜や皮膚に触れてくる空気の波動から、母親の語りかけを聞き取ります。もちろんその波動が何を意味するかは分からない。だって、まだ言葉を知らないんですから。でも、その波動と同時に、授乳やおむつ交換による生理的不快の除去が行われるということが繰り返されるうちに、それが「自分宛のメッセージ」だということは分かるようになる。そして、「そのメッセージは何を意味するのか?」という問いがその次の段階として、前景化してくる。
 赤ちゃんが言葉を獲得するプロセスの起点にあるのは、それが「なにを意味しているか」という概念ではなく、「それが誰に宛てたものであるか」という概念です。そもそも「言葉」という概念さえ持たない赤ちゃんが、短期間のうちに母語を自在に操ることができるようになるのは、考えてみればほとんど奇跡に類するできごとなのですが、それは赤ちゃんが、意味を理解できないメッセージが「自分宛て」であることについては、人類学的命令として直観しているからです。
 この講義を聞いてくれている皆さんが将来お母さんになったとき、みなさんがすべきことは、赤ちゃんに「あなたが大好きですよ」と指先と、手と、全身で、くりかえし語ってあげることだけです。