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シュテファン・ツヴァイク 『昨日の世界』(みすず書房)1/2

 ヒトラーによる世界破壊の予感に絶望したシュテファン・ツヴァイクが、1940年、逃れたリオデジャネイロのホテルで一冊の資料もないままに書き上げた、大ヨーロッパ世界沈没の回想記である。大戦によって徹底的に破壊される前の「世界に覇をとなえた栄光のヨーロッパ」という「昨日の世界」が、自分の記憶――ツヴァイの記憶力は恐るべきものなのだが――だけを頼りに、ドイツ語独特の複文構造で痛々しいほど丁寧に書かれている。
 文明を批評する高邁な知性に社会上層の信頼が寄せられていた時代だった。彼が語る世界のあるべき大きな物語は、その幻想性がまだ暴露されていない時代だった。シュテファン・ツヴァイクはそんな「昨日の時代」の典型的な教養人であり、ヨーロッパの一流で知識人で彼の知人でない人はいないほどの人物だった。その文体は抑制がよく効いた高潔なものだが、いま彼の書いた伝記や評論集を読む人は多くないだろう。
 少なくとも500年間、世界を率いたのはヨーロッパだった。ヨーロッパ発のレギュレーションは政治・軍事戦略だけでなく、自然科学、音楽、絵画、文学のすべての分野で、いまだに支配的である。倍音―楽音理論を基礎とした五線譜によらない(アジアなどの)音楽は、「異文化の音楽」をあらかじめ観念しておかないと奇異な思いがするほど、私たちの耳は西洋化されてしまっている。遠近法によらない絵画も同様である。
 1942年2月、これを書き上げてまもなくツヴァイクは四年前に再婚したばかりの妻と服毒自殺している。文明の滅亡の淵に立っていると思っていたツヴァイクは半年後、ヨーロッパ東部戦線、スターリングラードナチスが大敗することを見通せていなかっただろう。しかしあと半年生き続けて、連合国の反転攻勢を耳にしたとしても、ツヴァイクの憂鬱はあまり慰められなかったのではないか。近代が「文化に対する不快感」(フロイト)をあらわにする民衆を続々と生み出し、二度までも自分たちユダヤ人を殺しつくすのはなぜなのか。16世紀、ルターによって勤勉を「義務付けられた」ドイツ=オーストリア人は、類として強迫的神経症を負わされてしまっているのではないか・・・・。
 ロマン・ロランポール・ヴァレリーアンドレ・ジイド、トーマス・マンバルトークフロイトゴーリキー、・・・第一級の世界史的人間がツヴァイクの友人として何十人も出てくる。これらのリストを見ると、「私が物語るのは、私の運命ではなくひとつの世代全体の運命である」というツヴァイク言葉が、大げさでないことがわかる。近世の王権国家が近代の国民国家になることで、戦争は王様のきまぐれな、半年で終わる領地争いではなくなり、その国民の一世代全部を破壊する全体戦争に変わってしまっていた。国民国家間の戦争は、定義としてジェノサイドであることが当然のものになったのだった。
 戦後、同化ユダヤ人の国外での「自殺」にもかかわらず、「昨日までのヨーロッパ」を代表したツヴァイクの死はオーストリア国葬を以って遇された。

 昨日の安定した世界
 p30
 中央以西の同化ユダヤ人においては、ユダヤ人の内面のあるものが無意識のうちに、たんなる商売上の事柄につきまとう疑わしいもの、厭わしいものをのがれて、純粋に金銭を離れた圏域に高まろうとしていた。ロスチャイルドが鳥類学者、カッシーラーが哲学者、サスーンが詩人となったのは偶然ではない。ユダヤ人を狭小なものとした冷ややかな金儲けから自由になろうとした、その人たちに共通の衝動に従ったまでのことである。
 しかしこのような精神的なものへの逃亡は、社会的見地からは均衡を失した「知的過剰」を生むことともなったのであり、ユダヤ人のもうひとつの宿命になったのだった。
 p46
 音楽でのゴルトマルク、マーラーシェーンベルク、オスカー・シュトラウス、文学でのホフマンスタールアルトゥール・シュニッツラー、(シュテファン・ツヴァイク)、演劇でのゾンネンタール、マックス・ラインハルト、そして深層心理学を創始したジークムント・フロイト・・・・・、今日、欧米が文化資産として賛美しているものの相当部分は、当時のウィーンユダヤ人の「過剰」な精神が作り出したものである。
 p99
 「昨日の世界」では、選挙権を持つ富裕な人たちによって選ばれた地主たちは、議会において民衆の代弁者であると、大真面目に信じ込んでいた。・・・・これら市民的民主主義者たちは、少しばかりの譲歩と改良とによって、すべての臣民の福祉を促進できるものと、真面目に思っていた。彼らは、自分たちがただ大都市の良い境遇の人間たちだけを代表しているのであり、国土全体のあらゆる境遇の人間を代表しているのではないことを完全に忘れていた。
 ・・・・そうこうしているうちに、機械がその本領を発揮して、国土全体に散らばっていた労働者を諸工業のまわりに集めてしまった。そしてそのとたんに、市民的民主主義者というものが、いかにも高級であったにせよ、どんなに希薄な層であったかが暴露されたのである。
 p117
 「昨日の世界」では、いわゆる強い性と弱い性の対立が過度に強調されていた。男は精力的で騎士的で攻撃的であり、女はおどおどして内気で防御的であるべきとされた。すなわち猟師と獲物の関係である。老貴婦人が死んだ場合、肩の線とか膝より上の肉体を見てもよかったのは、産婆と夫と死体洗いだけであるというのは、けっして伝説でも誇張でもない。
 だから、同じ身分だが性のちがう一組の若い人々が、監督なしで遠足を企ててよいかというようなことは、まるで考えることもできなかった。あらゆる肉体的なものに対するこのような不安は、最高の身分から民衆全体の深くまでほんとうのノイローゼといえる激しさで浸透していたのである。・・・彼女たちは、一定の教育と養育との、人工的に栽培された所産であった。

 永遠のパリ
 p195
 「昨日の世界」では、ドイツでは将校の奥方は商人のおかみと、商人のおかみは労働者の細君とつきあうことをしなかった。しかしパリのカフェでは、ボーイも金モールをつけた将軍と握手をし、勤勉な小市民の細君たちは同じ廊下で出会った売春婦に軽蔑の視線を送らなかった。毎日その女と階段の上でしゃべり、細君の子供たちはその女に花を贈った。
 p202
 「昨日の世界」のパリでは、詩人たちはたいてい、ほとんど仕事をしなくていい小さな官吏の職についていた。フランスにおいては、精神的な仕事に対する大きな尊敬の念が、久しい前からすでに、画家や詩人や作家たちに目立たない閑職を与えるという賢明な方法を成熟させていたのである。

 第一次世界大戦の最初の頃
 p346
 オーストリア皇太子が暗殺され、第一次世界大戦が始まると、われわれウィーンの社交界の夫人たちは「これから一生涯けっして二度とフランスの化粧品を使わない」と新聞投書欄で誓うようになった。シェークスピアはドイツ=オーストリアの舞台から追放され、ドイツの教授たちはダンテはゲルマン人であった宣言した。戦争の相手側でも、モーツァルトワーグナーはフランスとイギリスの音楽堂から追い出され、アカデミー・フランセーズの教授たちはベートーベンはベルギー人であったと宣言した。
 愛する息子を戦場に送り出すとき、民衆の母親たちの団体は軍服を着たあらゆる人を賛美し、「若き英雄」というロマンティックな名前で挨拶を送るのだった。彼女たちは日常の平凡さから抜けださせる未知の力に支配されており、母親としての自然な感情を表わすことを恥としているように見えた。これこそフロイトが深い洞察をもって「民衆の、文化に対する不快感」と呼んだものであり、法律や規則ずくめの市民社会から飛び出して、原始の血の本能を荒狂わせようとする欲求であった。(p330)