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村上春樹 河合隼雄  『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫)

 7年ほど前になくなった河合隼雄は、文壇や論壇やマスメディアとほとんど関係を持とうとしない村上春樹が例外的に自分をさらけ出して語り合える人だった。それは、二人ともに、自分の周りに「人とモノとコトの物語」を織り上げることでしか、いろいろな人の「文化の病」、「時代の病」は癒せないものであるという基本的な思いを共有していたからだろう。だからこの本は、村上春樹に言わせれば「河合さんのところに押しかけて、これまで話せなかったことを心ゆくまで語り合った」ものだし、河合隼雄に言わせれば「馬が合う村上さんと、あらすじ何もなく丸二日間ベラベラしゃべり続けてできてしまった」本だそうである。

日本の社会にどうコミットしていくか
 p73−7
 村上  国際紛争と日本のかかわりをどう考え行けばいいのか、ぼくはまったくうまく説明できないのですよ。論理だけ考えれば湾岸戦争での小沢一郎の発言もそれなりに筋はあるんですが、あの通りにやったら、無茶苦茶なことになるのはわかっている。
 河合  日本は、まあ、非常にずるい方法をとっているのですね。でも、武力で世界が血を流さないようにするためには、世界中がもっとずるくなったらいいんじゃないかという気がしているんですよ(笑い)。それを日本人は自分たちはずるいやり方でやっているんだと言わずにずるいことをしているから、非難されても防戦一方になりますね。
 ぼくがずるさと言っているのは、人間の政治的立場などを論理的整合性だけで守ろうとするのは無理だと思っているからなんです。人間はすごく矛盾しているんだから。すごく矛盾した存在であることを基礎に据えてものを言っていったほうがいい。アメリカ人は湾岸戦争で日本の行動を非難しましたが、日本に言わせれば日本はアメリカに示された不戦憲法に従ったのですからね。兵隊を出さないことについてアメリカにどうのこうのいわれる筋合いはないわけです。不戦憲法の論理で言えばアメリカに日本を非難する権利はありません。
 村上  ただそういう(金は出すが兵隊は出せないという)ずるさの哲学を英語で説明しようとすると、とても難しいですね。河合さんのおっしゃる洗練されたずるさというのは、個人ならともかく、日本という国が総体としてその「ずるさ」を認めて、自分たちが偽善的であり矛盾していることを認識しながら進んでいくというのは、これはちょっと難しいのではないでしょうか。
 河合  そこは、どういったらいいのでしょうか。偽善の種類・・・・アメリカだって偽善と言えばすごい偽善でしょう。
 村上  偽善ですね。
 河合  クウェートを守るためと言うけれど、あの地域からクウェートを分離させて作ったこと自体が、イギリスとそれを引き継いだアメリカの、ものすごい悪と言えば悪でしょう。
 村上  悪ですね。
 河合  だから、そういう非常に明白な偽善をやる国に対して、われわれはとてもアンビギュアス(両義的な)偽善をやっているんだと。そういう考え方を比べて、結果的にどっちが得をするのか、それを世界に訴えていかなきゃならない。僕はアンビギュアスな偽善でまだがんばれると思うのです。

 日本人の社会コミットメントのナイーブさ
 村上  コミットメントというのは何かというと、人と人とのかかわりあいだと思うのですが、神戸地震のときもオウム事件のときも、(そして東北地震のときも)「あなたの言っていることはわかる、わかる、じゃ手をつなごう」とすぐなるのですね。「国民の心を一つに」なんてスローガンが、NHKや大新聞でパアーッとひろがって、花が咲くという歌が大ヒットしたりして。
 これがとても危ない側面を持っていることには誰も目を向けない。だって「億兆、心を一にして」というのは、あの教育勅語にすでにあった言葉なんですから。
 テレビなどを見ていても、原発を建設し、そこから利益を得てきたのは東電だけなのかという本当に大事なことは何にも報道されないし、誰も考えていないんじゃないか。
 河合  フランス人は「新聞に書いてあることを信じるほど俺たちは初心じゃない」と自負しているそうですが、それはともかく報道は「一般人の興味」という実態不明なものを基準に書かれていますからね。
 オウム事件でいうと、いま何かにコミットしなくちゃならないということに気がついた真面目な青年たちを、オウムが引き込んだのですね。「社会を変えたいというあなたの真摯な気持ちをここにコミットしなさい」「答えはありますよ」とね。
 村上  ただ、あの人たちの提示したイメージというか、自己改革、社会改良の物語は非常に稚拙なものですね。
 河合  ものすごく稚拙ですよ。それはなぜかというと、イメージとか想像力にかかわる訓練がなさすぎたということです。学校のお勉強だけで「イメージ」というものが「習える」と信じていた人たちなんです。実際はお勉強ではイメージとか直観力というのは離れていってしまうものです。そうですよね?村上さん。
 村上  でもそれと同時に僕はこの事件に関して、やはり「稚拙なものの力」というものをひしひしと感じてしまいました。乱暴な言い方をすれば、それは「青春」とか「純愛」とか「正義」といったものごとがかつて機能したのと同じレベルで、人々に機能したのではあるまいか。だとしたら、「これは稚拙だ、無意味だ」というふうに切って落としてしまうことができないのではないかと思うようになったのです。
 ある意味では、ひとりの弱い個人が、僕等のまわりで――つまりこの高度資本主義社会の中で――自分の物語を作り出すことが、あまりに困難になってしまったのかもしれない。僕らの社会があまりに専門化し、複雑化し、ソフィストケートされすぎてしまっているのかもしれない。だから一人の弱い個人は根本ではもっと稚拙な物語をつくろうとしているのかもしれない。ネット上にあふれているあまりに荒唐無稽な(と前世紀までは一刀両断できた)ロールプレイイング小説や、サッカーサポーターの外国人排斥横断幕事件や、このあいだの東京都知事選での自衛隊退役右翼将軍への投票行動などにも、こうした「稚拙なものの力」がはたらいているとは言えないでしょうか。