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夏目漱石講演集 『社会と自分』(ちくま学芸文庫)1/2

 漱石が、自分がした講演の中でこれと思うものをいくつか自選したものである。漱石を知るのに重要な『現代日本の開化』、『中身と形式』、『文芸と道徳』、『私の個人主義』の四篇は、岩波文庫漱石文明論集』にも収められている。
 ゲラゲラ笑ったところだけ抜き出したが、井戸の中の蛙があいも変わらず、「おいらの国にゃ万国一の富士がある」といって床屋の政談をしているような当時の文芸・芸術家の意識に対して、漱石の悪罵はとどまるところを知らない。

 創作家の態度
 文学における写実主義象徴主義、客観主義、耽美主義などといわれる「態度」がどうして生まれるのか、自分はどこに属しどこに属さないか、属さないとすればそれはどうしてか・・・・、といったことを非常に込み入った論法で述べたものである。論文として読めば、下に抜書きした箇所以外はあまり出来のいいものではない。
 p221−2
 日本では、情操文学も正統派の真実発揮文学も双方発達しておりませんのは、いくらうぬぼれの強い私も十分認めねばなりませんが、昔から今日まで出版された文学書の統計を取ってみたら、無論情操文学に属するものが過半でありましょう。のみならず作物(さくぶつ)の価値からいってもこの系統に属するほうが勝っているようであります。それは当然のことで、客観的叙述は観察力から生ずるもので、観察力は科学の発達に伴って、間接にその空気に伝染した結果とみるべきであります。ところが残念なことに、日本人には芸術的精神はありあまるほどありながら、科学的精神はこれに反比例して大いに欠乏しておりました。それだから、文学においても、外界の事相を無我無心に観察する能力はまったく発達しておらなかったらしいと思います。
 これを別方面の言葉で言うと、子はみんな孝行のもの、妻は必ず貞節あるものと認めていたらしいのであります。だから芝居でも小説でも、非常な孝行ものや貞節ものが、あたかも隣近所に何人でもいるかのごとくだけでなく、見物や読者もまた自分たちはその代表者でだと言わぬばかりの顔つきで、これに対していたのであります。
 まるで私が元禄時代から生きていたようにしゃべっていますが、どうもそうに違いありますまい。あんな芝居や書物を見る人は、真面目に熱心に我を忘れて釣り込まれていたに違いないんでしょう。それでなければ今日まで伝わる前にとっくに隠滅しているはずであります。
 そうであるとすると、あるお嬢さんは「朝顔」になったり、ある細君は「お園」になったり、またある若旦那は「信乃」や「権八」の気でいたんでしょう。そりゃ満足でしょう。自己の情操を満足させるという点から言ったら満足に違いない。自分ばかりじゃない。自分の子や女房や夫をこんなものだと考えていたら、定めし満足に違いない。もっともあの時代に出てくる悪党はまた非常なもので、到底想像ができないような悪党が出てきますが、これは善人を引き立てるためなんだから、このほうには誰もなろうと志願する者はないから安心です。