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夏目漱石 『道草』(筑摩書房)

 未完に終わった遺作『明暗』の前に書かれた自伝的要素の濃い作品。亡くなる2年ほど前のもの。養子に出された自分の生い立ちや身の回りの人々の欲望の世界を、細かい写実画のように描いている。漱石がときどき強い筆先で批判した自然主義派の作風をこの時だけは借用でもしたかのようだ。漱石が家庭人・夏目金之助としてはどのように暮らしていたかを知るのには格好の本である。
 炯眼の自然主義作家である正宗白鳥は『道草』を漱石作品の注釈書として、いろいろな作品の生まれた源をここにたどることができると言っているらしい。その意味で、全作品中最も大切な小説だとしてしているということだ(巻末解説・吉田精一)。

 もちろん主人公の健三は漱石自身を正確に写した人物だが、その自画像の筆先はあくまで厳しい。その筆遣いで輪郭を与えられる小ずるい養父母、世の中の落ちこぼれに近い兄や姉夫婦、江戸の昔の地位を鼻にかけながら、徳義心にはまるで乏しい妻の父などは、哀れで滑稽で、また憎々しい。
 これらの人々がうごめきまわる中心にあるのは、もちろんカネである。義理も人情も、学問さえ、カネがなかったらまともなものはできない。経済をはじめ生活一般の世情に疎かった漱石は、国から生活に困らない程度に給付金を貰ってロンドンに留学したが、そのほとんどを書籍購入に使ってしまった。ロンドンで東大後輩の金持ち知人から多額の借金までしているのだが、帰国してから返済を督促され、「ああ返さねばならないのだった」と本作中で慨嘆するような人だった。

 健三は偏屈で気むずかしい、実用向きでない男で、妻との家庭生活を楽しむことさえまるで知らず、大学での仕事に没頭するしか能がない。これまでの漱石の小説に何度も登場した、『それから』の代助や『門』の宗助によく似た人間である。
 彼の西洋仕込みの学問と教養は大したものだが、独立した自分の存在を主張しようとする細君にはすぐ「女のくせに」と不快を感じ、妻に自己の隷属物以上の価値を認めない。妻はまた妻で、「女房をもっと大事にしてほしい」と夫から愛されることを念願し、それでいて夫の意見よりは自分の実家の意見にいつも重きをおいている女房である。
 
 p223-4に描かれるこの夫婦の日常はまことにもの悲しい。

 だから健三の心は紙くずを丸めたように、いつもしゃくしゃした。ときによると癇癪の電流をなにかの機会に応じて外に漏らさなければ、苦しくていたたまれなくなった。そのとき彼は子供が母にせびって買ってもらった花の鉢などを、縁側から下に蹴飛ばしてみたりした。素焼きの鉢が彼の思い通りにがらがらと割れるのは彼の多少の満足になったが、・・・・・何も知らないわが子の慰みを無慈悲に破壊したのは彼らの父であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。彼は半ば自分の行為を悔いた。しかし子供の前にわが非を自白することは敢えてし得なかった。

 また、常でさえありがたくない保険会社の勧誘員などの名刺を見ると、大きな声を出して取次の下女を叱った。その声は玄関に立っている勧誘員の耳に明らかに届いた。彼はあとで自分の態度を恥じた。しかし、下女にそのことを詫びはしなかった。子供の鉢を蹴飛ばしたときと同じように、「責任は俺をこれだけイラつかせるまわりの世の中にあるんだ」と弁解を心の底で読み上げるだけであった。

 細君の方では、家庭と切り離されたこの孤独な人にいつまでも構う気色を見せなかった。夫が自分の考えで座敷牢に入っているのだから仕方がないくらいに考えて、まるで取り合わずにいた。