アクセス数:アクセスカウンター

夏目漱石 『行人』(角川 漱石全集10)

 小説の体裁をとりながら「個人」と「世界」についての漱石の哲学をストレートに著した作品。100年以上前の朝日新聞に連載したものだが、大半の朝日読者にとっては不人気だっただろう。いまでも文庫本では、漱石の作品としては格段に重版の数が少ないのではないだろうか。「神」という文字をそのままの意味で――揶揄や皮肉でなく――使っている回数はこの『行人』が最多であると思う。

 「自分」が物語の語り手で名前は二郎。兄の一郎とともに中流ブルジョア家庭に育った。「自分」は大学を出て、都内の小さな会社で食い扶持だけは稼いでいるごくごく普通のインテリ。まだ両親・兄夫婦の家に住まわせてもらっている。一方、兄は大学の人文系の助教授か何か。物事を考え込むたちのきわめて神経質な人間である。

 小説の後半になって、兄は哲学上の難問について悩み切っていたのだったことが明らかになる。兄を旅行に誘い出してくれ、旅先から様子を知らせてくれた数少ない友人の長い手紙によって、そのことが明らかにされる。このあたりの小説作法は『こころ』とよく似ている。

 「兄さんは、世界には人間の意思以外の偉大な意思が働いているかどうかを、まじめに悩んでいる。兄さんは生真面目すぎるほど生真面目な人だから、ただそのことゆえに、書物を読んでも、理屈を考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中なにをしても、そこに安住できないのだ」と友人は手紙で書いてくる。

「その人間の意思以外の意思が働いている可能性があるからこそ、兄さんは社会に立った場合のみならず、家庭にあっても一様に孤独で、痛ましい思いを持っている。人の性の何たるかを深く考えようとしない父も母も真実をごまかして生きる人であり、ことに妻はそうである。始終何かに対して怒っている兄さんを見ながら、妻は冷たいレディーの視線を向けるだけである。一度ぶったことがあるが、そのときも妻は兄さんを見下ろすような態度を変えなかったそうだ・・・・・・・」
 こうした兄・一郎の神経症はひどい胃潰瘍に悩む漱石神経症そのままだっただろう。実際『行人』執筆中に胃潰瘍を再び悪化させ、半年ほど連載を中断している。

 漱石の <世界には人間の意思以外の偉大な意思が働いている> という叙述は最晩年の有名な<則天去私>につながっていく考え方だろうが、これを漱石の宗教観ととるかどうかは難しいところである。なぜなら、仮に「偉大な意思が働いている」ことを認めても、その意思が私たちに「興味」を持っているかどうかは別問題だからだ。偉大な天が私たちに興味を持っていなかったら、<則天去私>はニヒリズムにかなり近づいてしまう。

 小説ははじめ一郎の夫婦仲のよくないところから始まる。そのうちに、なにかとのんきな「自分」のほうが兄嫁・直と気軽そうに日常の会話を欠かさないことから、万事に潔癖症な兄が妻と二郎との仲を疑うようになる。ある日などは、二郎に対して、「嫁を誘ってどこかに出かけて彼女の貞操を試してみてくれ」と無理を言う。弟との関係を疑いながら、ほかに男がいることも疑い、そのあたりを探って来いという、カマをかけたような、弟の忠誠心を試すような、兄の人間性の所在を疑うような難題である。だから小説としては、かなりページが進むまで鬱陶しい兄弟間三角関係のような話になるかと見え、漱石がどう落としてゆくか展開が見えてこない。

 おまけに、弟の「自分」は明らかに兄嫁・直に好意を抱いている。p211に <自分は雨だれの音の中にいつまでも嫂の幻影を描いた。濃い眉と濃い瞳、それが目に浮かぶと、青白い額や頬は、磁石に吸い付けられる鉄片の速度ですぐその周囲に反映した>という「自分」の心理描写があるが、この描写は『行人』の7、8年前に書かれた『一夜』という短編に出てきた、ある男と美しい女が旅館の一室で交わした思わせぶりな会話そのままである。それは、
ある男 <あのほととぎすの声は胸がすくようだが、惚れたら胸はつかえるだろう。思う人には逢わぬがましだろう>   美しい女 <しかし鉄片が磁石に逢うて、きりきり舞うたら?鉄片と磁石は逢わぬわけにはいきますまい>
という情のこまやかな会話だった。私は昔この箇所を読んだとき、後年までずっと心の裏に跡を曳く女性があったとされる漱石の女性観を見たことを確信した。

 ・・・しかし、『行人』中の「自分」のぼんやりとした恋心は、じつは漱石がこの「哲学的」小説を少しでも面白く読ませるための仕掛けにすぎなかった。そのことが第四章「塵労」(煩悩の意)になってはじめてわかる。兄の友人が唐突に、兄の哲学懊悩の底浅い実体を上述の長い手紙で「自分」に説明してくるのである。読者はな~んだと思ってしまう。物語構成上の大きな不手際がこの小説にはある。