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岸田 秀 『ものぐさ精神分析』(中公文庫)5/8

 <擬人論の復権

 ヒステリーや強迫神経症の症状は、
 その意味を精神分析者が了解し、患者に意識的に了解させれば、消失する
 p199−217
 少し前の時代までは、近代科学が人間の身体にまでおよんで、人間も物理化学的現象にほかならないということになっていた。精神は、いわば流れに浮かぶあぶくのようなもので、それ自体としては存在しないのであった。・・・・・そして、心理学とは、科学が完全に発達したとは言えないあいだの一時の暫定的学問にすぎず、いずれそのうち生理学に還元されるべきであり、さらに生理学は化学に、化学は物理学に還元されるべきであった。
 この擬物的世界観においては、物理学が盟主として君臨していた。他の諸科学は物理学本店の臨時に支店にすぎなかった。そのうち、(人間そのものを含む)森羅万象は、すべての科学を統合した物理学の統一理論によって説明されるはずになっていた。
 ・・・・・・しかしこの擬物論の破竹の進撃も、大きな障害にぶつかった。神経症や精神病の現象である。
 はじめはこの障害物も遠からず克服されると楽観された。神経症は神経のなんらかの疾患にすぎず、精神病は大脳組織のなんらかの器質的欠陥とみなされたからだ。
 だが重症の精神病者の脳を解剖してどれほど精密に調べてみても、異常は見つからなかった。精神疾患には身体的基盤がなかった。そんなことはあり得るはずがなかった。精神は影にすぎないのだから、本体はまっすぐなのに、影が勝手に独り歩きし、ゆがんでいるなんてことは、あり得るはずがなかった。そこで、あくまで擬物論に固執する精神医学者たちは、いまのところはまだ駄目だが、そのうち科学と技術がさらに発達すれば、精神疾患の身体的基盤は必ず見つかるに違いないと信じた。しかし権威ある大学の研究者だった彼らが現実の患者に対してできることは、その症状の記述と分類だけだった。

 そうこうするうち、大学の研究者と違って症状の記述と分類だけで事足れりとするわけに行かない街の開業医だったフロイドが、精神疾患の症状に「意味」があることを発見した。この「意味」の発見は重大な出来事であり、精神医学の潮目が変わった。
 「意味」とはどう転んでも、擬物論の「物」には還元できない「何か」だった。物は物自体として存在し得るが、意味は意味自体として存在し得ない。意味があるということは、それを伝える者とそれを受け取る者があるということであり、両者の間にコミュニケーションがあるのでなければならない。意味の存在は、それを了解する他者の存在を予定している。
 そしてフロイドは、ヒステリーや強迫神経症の症状は、その意味を精神分析者が了解し、患者に意識的に了解させれば、消失することを明らかにした。これはどういうことだろうか。すなわち、神経症の症状は、物のレベルの原因とは無関係に発症し、消失するということである。最近の精神身体医学は、ヒステリー性の盲目や四肢麻痺のように器質的病変の見当たらない神経症的症状だけでなく、現実に気質的病変のある胃潰瘍や高血圧なども精神的原因で生じることを明らかにしている。

 ガン発生は細胞レベルのコミュニケーションに関係している
 ・・・・・・話は全然変わるが、現代医学は、擬物論的生理学に立脚している限り、決してガンの治療法を発見できないだろう。発想の転換がここでも必要だろう。精神疾患と同じように、ガンの現象もコミュニケーション学の領域に属するのではなかろうか。癌の治療は、国家の中の反乱分子の駆除に似ている。・・・・・・それゆえに、モノをモデルとする立場に立つ一切のアプローチを拒絶するのではなかろうか。
 ガンは実体というより一つの危険思想であり、ガン細胞はその危険思想を信じている一部の人民である。ガンの治療のむずかしさは、危険思想を撲滅するむずかしさと似ており、ガンの転移は多数の反乱分子を虐殺してもまた別のところにそれを信じる者が現われることに似ている。・・・・・・・ガン細胞をすりつぶし、その構成要素を取り出してガンの本質を知ろうとすることは、たとえばテレビをぶっ壊してテレビが伝えていた情報の内容を調べようとするようなものではなかろうか。ガンの撲滅がなされるときとは、われわれのコミュニケーション学が動物のレベルからはるかに進んで、細胞のレベルのコミュニケーションまでも明らかにできたときではなかろうか。
 上記の岸田秀氏の文章は40年以上も前に書かれたものだが、最新の有力なエピジェネティクス理論(遺伝子によらない遺伝の理論)によれば、「がん発生は生体組織の日常的あり方に由来する」ということが言われている。「組織由来説」というこの理論は、細胞同士の正常な相互作用が破綻した結果がんが引き起こされるというもので、はからずも岸田秀氏の「がんは細胞同士のコミュニケーション不調の結果である」という主張を支持している。組織由来説によれば、がん細胞は、何にせよ正常細胞から生まれ、それらと相互作用しているのだから、コミュニケーションの失敗ががんにつながるのである。(本ブログ 2014年5月14日)