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河合隼雄 『コンプレックス』(岩波新書)

 精神分析あるいは臨床心理学の一般向け「古典」。1971年の初版以来、2012年で61刷を重ねている。コンプレックスという言葉は、あるいはこの新書から日本語に定着したのではなかったか。しかも、無意識内に存在し、表層意識の自我の形成に深い影響を与える「何らかの感情によって結合されている心的内容の集まり(p13)」と正しい意味で定着したのではなく、たんに「劣等感」としてのびのびした自我形成にマイナスの影響をもたらす内的意識くらいの意味で定着して、今日まで事情はあまり変わっていないように思われる。
 本書の発刊以来40年以上がたった。日本における現代的精神分析家の草分けとしての河合隼雄の偉大さは少しも変わるものではない。本書巻末の、ユングの「元型」に触れながら「普遍的(人類的)」無意識>個人的無意識(文化的無意識)>表層意識=自我」という意識の階層説明をしているところには、いまでも圧倒的な説得力がある。
 しかしながら、精神分析学や臨床心理学を基礎の部分で支える脳科学、なかでも本書が扱う分野を直接担う神経生理学は、前世紀末以来めざましく進んだ。脳内のいろいろな領野の活動を磁気地図と記録するMEG、脳内血流の量と位置を陽電子断層撮影で記録するPET、脳の高画質な三次元画像を生成するfMRI、頭蓋の外から弱い磁気パルスをニューロンの一群に与え、そのニューロンの機能を非侵襲的に一時的に阻害できるTMS・・・・・、これらはいずれも本書執筆時の河合教授には知られていない脳神経研究技術だった。名著『脳の中の幽霊』や『脳の中の天使』を書いたカリフォルニア大学のラマチャンドラン教授が言うように、フロイトユング以来の精神分析家は、自己統一性に乱れのある患者の行動の観察に際し、問題を脳の意識的プロセスと無意識的プロセスという観点から組み立てることはできるが、それを検証する脳神経外科・内科的ツールを持ち合わせてこなかったのである
 『ミラーニューロンという、頭頂葉付近に数多く存在する特殊なニューロン群の共同研究を世界中に呼びかけているラマチャンドラン教授は「自閉症」について以下のように流暢に語る。
 自閉症の子供が対人的相互交流に深刻な欠陥があるのは、上述の「心の理論」に何らかの障害があるからだ、というのは直感的には説得力があるように見える。しかし少し考えてみれば、この考え方の方向性が正しいのは間違いないが、観察された症状をほかの言葉で言いかえるという域からさほど進んでいるとは思えない。出発点としてはいいが、本当に必要なのは、自閉症児で不全が見られる機能を担う脳のシステムを特定することである。・・・・・・・。
 その手がかりはミラーニューロンから得られる。なぜならミラーニューロンとは、隣人の心を読み取ることを本質的な機能とするからである。神経生理学者が、その説明付けを長年の課題としていた、人原独自の高度な能力の生理的基盤が見つかったのである。私たちは、ミラーニューロンの機能と推定されるもの、すなわち共感、意図の読み取り、模倣、ごっこ遊び、言語学習などが、まさに自閉症で機能不全が見られるものであることに驚く(これらの活動はすべて、「他者の視点」を持っていることを必要とする)。ミラーニューロンの特徴を書き出し、その隣に自閉症の臨床症状を書き並べてみると、両者はほぼぴったり対応する。』

 これに対して本書で、「神経衰弱」について、河合教授は以下のように語っている。古色蒼然を感じるのは私だけだろうか。(自閉症は本質的には器質疾患であるので、医師ではない河合教授は扱うことができない。だから本書に自閉症に関する記述はなく、ラマチャンドランと同列に比較はできないのだが・・・・・・。)
 p89 
 『神経衰弱といわれるノイローゼは、ともかく元気がなくて、何もする気がしない状態である。意欲というものが湧いてこないのである・。このようなノイローゼになっている人は』、周囲から怠け者であるという非難を受け、本人も発奮しようとするが、全然力が湧いてこないので致し方ないのである。この場合、コンプレックスは自我の手の及ぶ範囲で活動していない。あるいは、コンプレックス相互間で争いがあるのか、コンプレックス相互間にエネルギーの流れがあるにしても、それは自我へは流れてこない。実際、自我はコンプレックスとの望ましい接触があってこそ、そこからエネルギーの供給を受けるわけであるが、それがうまくいっていないのである。』
 精神分析学というのは果たして科学に値するのかという、フロイト以来の疑問が現在でもあるのは、上の言説を見れば仕方ないのではなかろうか。言葉の定義ひとつをとっても、「エネルギー」というのは直観的にはわかるのだが、それが怪しい「力動論」にどこまで近づいているかは読者には理解できない。