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茂木健一郎 『脳と仮想』(新潮社)1/2

 科学はクオリアを、研究対象にしたくてもできなかった

 p20-5

 赤い色の感覚、水の冷たさの感じ、そこはかとない不安、たおやかな予感。私たちの心の中には、数量化することのできない、微妙で切実なクオリアが満ちている。私たちの経験がさまざまなクオリアに満ちたものとしてあるということは、この世界に関するもっとも明白な事実の一つである。

 ところが科学は、私たちの意識の中のクオリアについては、その研究の対象にしてこなかった。探求の対象にしたくてもできなかったのだ。脳という物質に、なぜこころという不可思議なものが宿るか、その原理を明らかにするには方法論的に歯が立たなかったのである。

 もちろん物質としての脳と無関係に、私たちの心があるわけではない。計量できる物質と無関係に計量できない経験があるのではない。

 私たちの脳という複雑な有機体も、また、物質である以上、そのさまざまな性質を数で表すことができる。方程式に書くこともできる。一千億のニューロンが一秒間に何回活動するかは数えられる。ニューロン中の分子の種類も、その濃度も数えられる。そのような数の間の関係式を方程式で表すこともできる。

 しかし、方程式で書けるような現在の科学の方法は、私たちの主観的体験の問題に関しては、何の本質的洞察も提供しない。研究所で脳科学シミュレーションを受けているひとがいま何を考えているのか、今日の昼食のことを考えているのか、彼女とのデートのことを考えているのか、明日の上司との打ち合わせのことなのか。そのような主観的な体験の質は、科学の方法でわかりはしない。

 裏を返せば、クオリアを初めとする、私たちの心をめぐる困難な問いに対して距離を置いたことは、科学が今日の成功を収めた大きな要因であった。しかし意識の根本原理を理解したいという立場からは、科学は人類の知的探求の不完全燃焼にすぎなかった。

 心に浮かぶ様々なものを生み出す第一原因は、現時点では未知であるが、なんらかの精密な自然の秩序であることを、現代の脳科学は示唆している。意識もまた自然現象であるはずである。しかしこの身近な主観的体験に対して解明の方法論さえ立てえないというのでは、科学が名乗る「万物の理論」は詐称に近い。

 科学者の多くは、人間の心のことを「随伴現象」と言う。随伴現象とは、今までの科学の中では、人間の心の存在意義が副次的なものであったことを象徴する概念である。
 随伴現象説では、クオリアに満ちた私たちの主観的体験は、なぜそうなるのかはわからないが、物質的過程である脳のニューロン活動に「随伴」する現象として生まれるとされる。物的現象と心的現象はおたがいに密接に関連して進行するが、平行していて影響を及ぼし合わない。特に、物質としての脳の中の分子の時間発展は、因果的には閉じていて、それに心が随伴することは、脳の因果的発展に影響を与えない。
 だから、客観的視点から物質としての脳の時間変化を数で表し、方程式を書く上では、心の存在は忘れてしまってよい。しかも物的過程と心的過程は厳密に対応しているので、物的過程だけを見ていれば、現象の記述としても必要にして十分である。つまり心なんてものはあってもなくてもよい「付け足し」になる。これが随伴現象説と呼ばれる考え方で、近年の脳科学における通説となってきた。

 だからこそ、脳科学は、クオリアに満ちた人間主観的体験などという面倒なものを気にせずに、数で表すことのできる「科学的体験」の世界で、脳の機能を解析することに専念できたのである。

 脳科学が茂木氏の言うとおりのものだとすれば、たわけた理論もあったものだ。物的過程と心的過程は厳密に対応しているというが、たとえば詩人が一つのクオリアにインスピレーションを感じて詩作に弾みがつくとき、クオリア=心的過程であり、詩作の進捗=物的過程だと、脳科学者は中学生みたいなことを言い募るのだろうか。
 またたとえば人が嘘をつくとき、彼の心的過程と物的過程はきちんと対応しているだろうか。官僚が国会で「誓って私は首相に報告していません」と嘘の答弁をするとき、官僚の心的過程は「俺は嘘をついている」であるにもかかわらず、彼の物的過程は「私は首相に報告していません」であって、物的過程と心的過程はこのときまったく対応していないのではなかろうか。