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茂木健一郎 『脳と仮想』(新潮社)2/2

 脳科学にとって、「意識」の存在は確実なことではないらしい

 p204‐6

 近代科学のもとでの世界観は、私たちの身体が存在し、脳が存在し、目の前のコップが存在し、庭の木が存在し、地球が存在し、太陽が存在し、それらが方程式で記述できる自然法則で変化していく・・・というものだった。

 しかし、と言うべきかだからと言うべきか、そのような近代科学にとって、私たちの「意識」は、確実な存在ではなかった。意識が存在し、自分が自分の意識について遡及的に考え、批判することができるということは、科学的世界観からすれば余計なこと、想定していないことだった。

 意識の中に、数式に直すことのできない、様々なクオリアが存在すること。意識の中で、この現実の世界には存在しない、たとえばユニコーンとか、かぐや姫とか、ハルマゲドンとかさまざまなものごとを仮想することができること。そして、そのような意識に表象されるすべてを把握している「私」という存在がいること・・・。
 これらの経験的事実は、「因果必然的法則からなる物質的世界」という世界観から見れば、いかにも奇妙なことであった。だから科学は、ほんのこのあいだまで、意識は存在しないことにしていた。意識の存在を認めたにしても、それはなにか生気論に近い、真に言及するに足りない、胡散臭いものとしてきた。

 心の時代であるとか、感性の時代であるとは言いながら、現代人が本音の部分で、物質的存在こそが確実であり、意識はあいまいで頼りない存在であると考えていることは、どうやら間違いがない。それは仕方がないことだ。

 そもそも人間の知性は認知的に閉じており、人間には自分の意識の問題は解けないと主張する哲学者が何人もいる。ではあっても人間にとって、自分の意識がある、ということほど確実なことはないはずである。なぜならアインシュタイン相対性理論もハイゼンベルグの量子理論も、自分のその理論を正しいと思うのはまず自分の意識であるからだ。自分の意識の検証に合格できない考えなどというものは、科学理論であれ芸術作品であれ、世間に公表するわけがない。

 物質的世界こそが確実だ、という世界観は、おそらくは公共的倒錯とでもいうべき奇妙なねじ曲がりの上に成り立っている。だから意識が存在することを、直感的には別にして、科学的世界観と整合性のある形で説明するには、おそらくとてつもない天才の出現を必要とするだろう。ニュートンアインシュタインの比ではない、すさまじい知力と胆力を持った超人の出現を必要とするだろう。