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岸田 秀 『ものぐさ精神分析』(中公文庫)7/8

 <言語の起源>

 バラバラの私的幻想から共通要素を抽出し、
 共同幻想を仕立てようとするものが言語である

 p235−7
 人間の言語は、一つの共同体内で、あるイメージに対する一つの発声に対して一定の意味を付与するという約束ごとである。その発声とイメージのあいだになんらの必然的関係はないから、その約束ごとは錯誤の上に成り立っている。しかし、共同体の成員がそのことを了解さえしていれば、発声とイメージは言語と指示対象の関係に入りうるわけである。
 言語をしゃべりはじめる前の幼児の喃語は、共同化される前の錯誤の発声であり、母親が幼児の喃語のうちのある一定の発声に反応することによって、それにある一定の意味を付与し、言語として共同化していくのである。
 言語の発明はそれほどむずかしいことだったとは思えない。現代の高度に分化し、抽象化された言語を考えれば、むずかしそうに思えるかもしれないが、未開時代の、熟知した環境において単純な生活を営む狭い集団の中で、特定の場面におかれた個人が表現したいようなことはかぎられていたはずだ。せいぜい数十個の名詞や動詞があれば十分ことが足りただろう。しかも単語というものは派生や転用や合成などによって、次々と別の新しいものを表現できるようになるから、少数の単語で非常に多くのことをカバーできるようになる。
 たとえば、「母」が「ハハ」だということになれば、それを濁らせて「祖母」(ババ)、さらに「老女」一般や「中年女性」一般、隠喩によって「故郷」、「母国」、「原因」などの意味を負わせることができる。ただしはじめになぜ「母」を「ハハ」と呼ぶようになったかは、わからない。定義として、発声とイメージのあいだになんらの必然的関係はないのだから。

 あるイメージに対する一つの発声に対して一定の意味を付与されたということは、そのとき各人のあいだのコミュニケーションを可能になった、ということである。繰り返しになるが、言語は、各人それぞれ勝手な方向に歪んだばらばらのイメージ、私的幻想から何とか共通の要素を抽出して共同の一般的イメージをつくることである。それらの一般的イメージをまとめて共同化し、それを足がかりにして見失いそうになる現実を自分のものにするために発明されたのである。

 言語はいまでもある程度この役割を果たしているが、もちろん完全には成功していない。個人の持つイメージを余すところなく言語化することはできない。つねに言語化されない部分が残る。言語的表現にはつねに、その字句通りの意味の何倍もの意味が隠されている。言葉はつねにその字句通りの意味を裏切る。時がたつにつれて言葉の意味がずれていったりするのは、そうした背後の意味のほうへ引きずられるからである。
 言語と意味に関してパヴロフの犬の条件反射的関係しか見ない機械論的心理学は、ついに言語というものを理解しないだろう。ミツバチのコミュニケーションに誤解はありえないが、人間の言語的コミュニケーションは誤解に満ちている。励ますつもりで先生が叱ると気に病んで自殺する生徒がいる。反抗する生徒がいるし、馬耳東風の生徒がいる。各人が先生に対してそれぞれ勝手な方向にばらばらのイメージを持っているからであり、それらを余すところなく共同化できる言語は決して発明できないからである。