アクセス数:アクセスカウンター

内田 樹 『子どもは判ってくれない』(文春文庫)1/2

 論説委員はだれに向かって書く?
 p10
 イラク戦争のとき、朝日新聞の社説は「米軍はバグダッドを流血の都にしてはならない。フセインは国民を盾にしてはならない」と書いた。
 この文章はまったく正しい。まったく正しいけれど、いったいこの文はだれに向かって書かれているのだろうか。読者にだろうか。米国大統領にだろうか。フセインにだろうか。
 この、言説の相手が不明であるような論文を朝日新聞論説委員が書くという事実に、私はある種の「時代の病」の徴候を感知する。「病」というのは、この論説委員が「言葉を届かせる」ということにあまり興味がないということである。彼が興味を持っているのはだれもが反対できない「正論」を述べることであって、それが届くべき人に届くことはそれほど興味がないらしいからである。
 
 不快な「他者」との共生
 p25-6
 大メディアの論説委員をはじめ、心やさしい他民族共生論者たちはじつに気楽に「他者」という言葉を口にする。しかしすべての「他者」がフレンドリーなわけではない。私たちの同胞である「他者」のなかには、「私の意見に反対する人間、政治的に立場がちがう人間、私の利益を損なう人間、私の自己実現を阻む人間」が含まれている。
 「私人としての私」にとって、これらの「他者」はいずれも不快な人間である。しかし、残念ながら、かれらはまぎれもなく私の「同胞」であり、「市民としての私」はその心情を尊重し、その政治的自由を保障しなければならない。
 どう考えたって、それが愉快な経験であるはずがない。お気楽な他民族共生論者たちは、靖国神社に額ずく人々の心情に配慮し、それと同時に、金正日に忠誠心を抱いている在日朝鮮人の権利も尊重しないとまずいわな、というような気配り仕事をしているのだろうか。

 「内面」
 p89
 知られるとおり、「内面」は近代の概念である。わが国文学史の教えるところでは国木田独歩の発明である。だから江戸時代の侍にはもちろん「内面」なんかなかった。
 山本周五郎の『樅の木は残った』の主人公原田甲斐が「本当は何を考えていたのか」は、この小説を眼光紙背に徹するまで読んでも分からない。この人は、政治状況が変わるにつれて、言うことも変わるし、態度も豹変するし、敵味方も入れ替わる。だから端から見ると「忠臣か奸臣か」わからない。
 しかし、おそらく原田甲斐自身は、主観的には(もし原田甲斐の「主観」などというものに意味があるとすればだが)、まったく遅疑逡巡することなく、まっすぐ生きているつもりでいるのだろう。彼はそのときどきの政治的布置の中で伊達藩の存続にとって最適と思われる政治的選択を採用しているだけだからである。