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加藤周一 『日本人の死生観』(岩波新書)2/2

 三島由紀夫――仮面の戦後派

 下巻 p176-8

 私(加藤)は太平洋戦争直後、戦後世代の作家たちが同席している場所で、何回か三島にあったことがある。当時の印象では、三島は非常に小さく、やせぎすで、眼が大きく、態度は神経質でぎこちないところがある一方、他の人たちには興味のない彼自身の問題に頑固に執着しているようにみえた。
 三島は独特で、非凡な才能に恵まれていたが、論議の対象とならざるをえない人物だった。自己観察にかけてはすぐれていたが、他者の人格を理解する能力は限られ、美に対する感受性はゆたかだったが深い文化的教養はなく、怜悧な作家ではあったが抽象的なレベルにおける知的訓練に欠けていた。彼はつねに、内部の官能的・情動的自我から外部の歴史と社会へと向かうのに困難を感じていたと、私には思える。
 小説と戯曲において三島が作り出した人物たちは、その最良の時期でさえ、単に作者を代弁しているに過ぎないフシがあった。この傾向は『鏡子の家』で最高潮に達して、その後は、彼の想像力は明らかに下り坂に向かった。三島はしばしば唯美主義者をもって任じていたが、西洋美術にも日本美術にも通じておらず、それはたとえば、陶磁の世界を愛し、深く知っていた川端康成とは鋭い対照をなしている。
 三島の趣味はときに卑俗に堕し、その大仰な文体のおかげで絵葉書のような印象を与える。京都における建築美の象徴として金閣寺をあげるのは、パリの建築の象徴として凱旋門を持ち出すのと同様、独自性に乏しいだろう。この小説において、主人公の内部における官能的な起伏はよく人を納得させる。だが、外部における金閣の美の描写は通俗的である。
 ・・・一部の観察者が示唆するように、三島の政治思想も、彼の仮面だったのかもしれない。しかしだれでも、自分に合った仮面を選ぶのである。三島はみずからの死にあたって、エロティックな恍惚感を味わったかもしれない。しかしいずれにせよ、彼の政治思想には死という出口しかなかった。三島の場合とくに、死は帰結――衰えつつあった想像力の、実現不可能な政治参加の、涸れつきたショーマンシップの、帰結であったと私には感じられる。大向こうをねらった自殺は、おそらく彼自身にとっては恍惚感をもたらしたのだろうが、観るものにとってはそれは遠い過去からの奇異な叫び声であった。乃木希典の死後に書かれた神話の歴史が、三島の切腹の後に再び繰り返されることはないだろう。日本は、戦時中の心性の悲しい記憶をこれかぎりで葬り去るだろう、と私は思う。