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内田 樹 『態度が悪くてすみません』(角川新書)

 p47 
 コミュニケーション失調症候群
 神戸女学院大学の教員である私・内田の発言や行動には「ハラスメント」とみなされる類のものが少なくない(という方が多い)。にもかかわらず、私はいまのところ女子学生から告発されそうな事態に陥ったことがない。
 「だめだよ、こんな論文。こんなものに学位は出せない」と冷たく言い放っても、「早く結婚した方がいいぜ」と忠告しても、それが「権威を笠に着た人格的攻撃」や「個人の性生活に言及する性的嫌がらせ」と、学生が受け取らないからである。
 つまりコミュニケーションにおいては、「メッセージの解釈の仕方」は、語詞レベルではなく、非言語的なレベルにおいて受信される側に「察知してもらう」ほかないということである。逆からいえば、表層的な語詞レベルのメッセージでは、言葉は無限の誤解の可能性に満ちているということである。
 (まことに悲しいことであるが)私たちの社会はこの先、自分宛のメッセージが含む複数の解釈可能性の中から、自分にとってもっとも不快な解釈を選択することを政治的に正しく、知的な振る舞いと見なす人間たちを量産してゆくことになるだろう。

 p51-2 
 喧嘩の効用
 私たちの世代は「教養主義」最後の世代である。教養主義というのは、ひとことで言うと個人の「好き嫌い」に小うるさい理屈をつけずにはすまない性行のことである。「漱石と鴎外と谷崎と荷風のだれが好きか」について、それを個人的嗜好のうちに踏みとどめることができず、それを「良い悪い」という当否の水準で論ぜずんばやまず・・・・・・というところまで暴走してしまうのが教養主義の一側面なのである。
 「個人の好き好きだから・・・・」を簡単には認めないのだから、教養主義とはじつに面倒なものである。面倒ではあるが、それなりに良い面もある。「良い悪い」と言うならばその「当否」の理由を言わなければならないからだ。理屈をこねるためには、「良い」作品群と「悪い」群について、やはり全体のマップというか、一望俯瞰的な視座からの包括的評価が求められる。そしてそのためには、自分が興味のない作品も「勉強」のために読まなければならないし、それらの作品について批評的に語る「共通の語法」もまた習得しなければならないのである。

 p185 
 加藤典洋敗戦後論』が教えること・・・・・私たちは非―知をどれだけ自覚しているか
 マルクスフロイトはまごうかたなき天才であり、彼らは実に多くのことを説明してくれた。けれどもどうしてこれらのことを彼らが説明できるのかについては説明してくれなかった。自分がいま思考しつつあるメカニズムについて、当の思考は語ることができない。自分がある問題を選び、それを現に解きつつあるのはどうしてなのかを解答者は説明できない。
 すべての生産的な思考の起点には、この構造としての非―知がある。この非―知の自覚のうちに思考の可能性のほとんどは胚胎されていると私は思う。だから、わたしが思想家の信頼性を判断するときには、おのれの非―知をどれくらい痛切に覚知しているか、そのことを基準に取るようにしている。

 p220-2 
 靖国論争をめぐって
 知られている通り、人類は死者を弔う儀礼を行うことで他の霊長類から分岐した。人間はなぜ葬礼を行ったのかについて納得のゆく説明を私は一つしか知らない。それは人間だけが 「死者が切迫している」 という背理に耐える能力を備えていたからである。
 他の動物にとって同族の死体は「枯れ葉」や「珊瑚礁」と同じく、無言の自然にすぎない。しかし人間にとっては違う。正しい葬礼を行わなければ、使者が戻って禍をなすという信憑は有史以来すべての人間集団が共有してきた。
 古来、共同体をめぐるほとんどの対立は「死者のために/死者に代わって」何をなすべきかを 「私は知っている」 と主張する人々の間で発現してきた(テロリストはその極端なかたちだ)。
靖国問題の参拝反対派と参拝賛成派の議論は、外見的には氷炭相容れないが、「死者は正しく祀られなければ、生者に災いをなす」という点については、合意が成り立っている。服喪の儀礼の「正しさ」について両者の意見が違うことよりも、服喪の必要性については合意している点をわたしは重く見たいと思う。