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内田 樹 『私の身体は頭がいい』(文春文庫)

 学校体育は身体の感受性を育むことができるか
 p195−7
(いつものように、体育会系の人に嫌われる言い方をあえてすれば、)身体能力開発の本義は、外部から到来する邪悪なものから身を守るための訓練のことである。 ライオンと出合ったときに、それを殴り殺すだけの腕力を体育で身につけさせることは、どう見ても困難である。ライオンを振り切るだけの走力を身につけさせることも等しく困難である。しかし、遠くから「この先に何か嫌な感じがする」というような仕方で危機を察知する能力の開発は、腕力や走力の開発よりは容易である。
 だから、太古以来、子供の身体訓練において最優先に開発されたのは「危機を感知する能力」だったはずである。不安や恐怖や逡巡といった身体反応がどういう場合に生じるのかを知り、そのわずかな徴候にもとづいて行動パターンを臨機応変に変更することのできる個体だけが、生き延びる確率の高い個体だからである。
 そのような能力開発プログラムは子供たちにまず、「遊び」として提示されただろう。「かくれんぼ」や「鬼ごっこ」や「ハンカチ落し」などはすべて「目に見えず、耳に聞えないで接近してくる邪悪なもの」をいちはやく感知し、反応するためのレッスンである。そこで優先的に開発される資質は、腕力や走力ではない。

 敗戦後、GHQは日本の学校体育から「強兵」的要素を完全に除去することを命じた。学校体育は身体訓練をスポーツとして、もともとの意味である「遊び」として再編することを余儀なくされた。体育はもう強いお国の強い兵士を作る場であってはならない。それは「遊び」でなくてはならない。GHQはそう指示した。
 しかし、その当時の日本人の大人たちは、「遊び」を正課で教えるということの意味がよく理解できなかった。「遊び」は、正課が終わった「放課後」に勝手にするものでしかなかった。だからそうした大人たちは、やむなく学校教育にいくつかの功利的な動機づけを導入することでスポーツを正課として意味づけた。
 動機づけの筆頭は「経済合理性」による説明である。この動機づけは、今日でもまだ十分に有効である。野球やサッカー、長距離走などの専門校かと思うほどの高校が増えているのは、この功利的な動機づけが国民的に承認されていることの証明である。スポーツにおいて傑出した身体能力を発揮した子供と親と高校は、報酬として就学・就職機会や金銭や栄誉という利益を得ることができる。学校にいながら「身体で金を稼ぐ」とは、国民が戦前は手に入るとは思わなかった種類の利益である。
 いま、多くの人たちは「生き延びるための能力」を「金を稼ぐ能力」と同定している。けれども、「生き延びること」が「金を稼ぐこと」と同義であるのは、例外的に平和な社会においてだけである。子供たちがもう「かくれんぼ」をしないのは、子供を拉致し去る「邪悪なもの」がもういなくなったと、大半の親たちが信じたからである。
 だが、「邪悪なもの」は、人類が発生して以来さまざまに形を変えはしたが、消失したことは一度もない。ひどいいじめがはびこり、大人たちが責任転嫁を続けるように、「邪悪」が消失することは、これからも絶対にない。