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藤井 聡 『<凡庸>という名の悪魔』(晶文社)

 ドイツ第三帝国がその片鱗を見せ始めた時代そのままではないかと思わせる空気が、いまの日本にはある。もっともこちらの人は体躯が貧弱なので、あの圧倒的な暴力性だけは全然及ばないが・・・。
 古くはあの小泉純一郎の郵政「改革」のとき。小泉が地方都市に演説に行くと、街のおばさんたちは男性アイドルを追いかけるように顔を紅潮させて会場に集まった。ドイツの総統が世界制覇演説を叫んだときを思い出させるように、おばさんたちのライトペンはウェーブしていた。
 いまはあの凡庸な安倍晋三。論理破綻が明白な戦争法案を国会通過させようとしていても、彼が街頭に出れば、おばさんたちは握手を求めようとしてあっという間に数千人規模でその場に集まる。前回の総選挙で安倍晋三が何をやろうとしているか明々白々だったにもかかわらず、おばさんとおじさん達は絶対多数の議席を彼に与えて悔いるところがない。
 新聞とTVには、3.11をめぐる千篇一律の報道トーン。石牟礼道子が「水俣は取り戻さなければならない桃源郷であったわけではない」と書いたようなことを、記者たちは決して記事にはしないし、できない。記事の最後には『花は咲く』を書かなければならない。
 身近には、プロ野球の応援風景。どの球場でも、なぜみんなツンツンと爪先立ちで跳ねるのだろう。どの球場でも、なぜみんな同じメロディで「かっ飛ばせー・だあれ・だれ」と何時間も叫んでいるのだろう。内野席にいて叫ばなければ、間違いなく周囲から白い眼で睨まれるらしい。
 これもTV画面だが、ニュースを読む女子アナはなぜ八割がた、両頬に髪を長く垂らしたヘアスタイルなのだろう。知り合いの美容師に聞いた話では、一般客が同じヘアスタイルにする場合、二十歳前後の女性は垂らす髪の長さをミリ単位で指定するらしい。少し変わった長さにすると、その女性は周りからメールでいじめられるのだそうだ。

 この本『<凡庸>という名の悪魔』には「21世紀の全体主義」という副題が付いている。タイトルからわかるように、ハナ・アーレントの名著『イェルサレムアイヒマン・悪の陳腐さについての報告』が下敷きになっている。去年映画が公開されたが、アイヒマンは悪の権化のような人間ではなかった。わずかな出世に汲々とする、上司には絶対に逆らわない小心者だった。小役人として与えられた「仕事」だけが生きがいだった。市役所のどの席にもいるごく普通のおじさん・おばさんと全く同じように。
 自分の仕事が何を意味するかについて「考える」ことは、アイヒマンにとってはただのうっとうしい面倒事だった。物事を難しく考えないことこそが仕事をはかどらせる秘訣だった。もっとも自分が思考を停止していることが、凡庸な小役人の彼の意識にのぼることはなかったが。
 このアイヒマンのようなごく普通の人間は、安倍の演説会場に、プロ野球スタンドに、被災地報告をするTVスタジオに、だれだれの髪は何ミリ長いと触れて回るメーラーの中に、いくらでも発見することができる。あまりにそんな人だらけなので、違和感を覚える自分がおかしいのではないかと思うほどだ。
 ちょうど1930年頃、ユダヤ人迫害が盛んになりだしたころ、何も考えずにユダヤの商店に石を投げ、火をつけることが、世界不況にあえぐ陳腐で小心な非ユダヤ市民の「憂さ晴らし」だった。同じことが、巨大な応援旗をなびかせるサッカースタンドで、数万人が「かっ飛ばせー」と声を合わせる野球スタンドで、ヘアスタイルがみんなと違う女性を中傷するメールの中で、起きていないだろうか。

 p123−5
 いじめ ―― 十分に教育されない子供たちの憂さ晴らし
 いじめがエスカレートしていく構造の背景には、いわゆる憂さ晴らしを求める「俗情」があります。現代日本の小学校・中学校の子供たちには、大きなストレスがかけられています。子供たちのふるまいを拘束するためのさまざまなルールが陰に陽に導入されています。
 管理社会ということが盛んに言われたのは80年代でしたが、それは『積み木くずし』といったTVドラマが象徴する、不良生徒の大人たちへの反抗現象でした。・・・しかしこの現象は21世紀に入って大きく様変わりしました。反抗の矛先が、大人たちではなくなったのです。

 80年代の子供たちにとっては、画一的な社会に否が応でも飲み込まれてしまうことが大きなストレスでした。しかしいま、21世紀の格差が広がる社会にあっては、一定割合の子供たちの間で、自分たちは大人に見捨てられるのではないかという、大きな「恐怖」が広がっています。
 格差社会の底辺にいる大人は子供を十分に養育することができません。ですから、大人に助けられる子供達の席は一定数しかなく、その限られた席を子供同士で奪い合わなければなりません。言うならば、21世紀に入って、子供同士の殺し合いという構図が登場してきたわけです。
 こうした状況の中で子供たちは常に、みずからのストレスの吐け口を求めることになります。そして「いじめ」こそ、この俗情のはけ口として恰好のものです。いじめは肉体的あるいは精神的な暴力です。暴力ほど、思考しない人間にとってのストレス解消策はありません。
 子供は思考する人間ではありません。子供たちにとってはいじめる対象など誰でも構わないのです。要するに憂さ晴らしなのですから。