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養老孟司 『無思想の発見』(ちくま新書)2/2

「私は無思想」という強力な思想 p95
 「俺は思想なんて持ってない」という思想は、欠点が見えにくい思想である。そもそも「思想だなどと夢にも思っていない」んだから、他人の批判を聞き入れる必要がないし、訂正する必要もない。じつになんとも手間が省ける思想なのである。
 日本の世間がその意味でいかに省エネしているか、それはたいていの人が気づいていると思う。歴史的に日本の急速な、いわゆる近代化が可能だったについては、この省エネ思想が与かって力があった。
 なぜなら、「思想なんかない」、そう思っていれば臨機応変、必要なときに必要な手が打てる。たとえ昨日まで鬼畜米英、一億玉砕であっても、今日からは民主主義、反米なんか非国民でいけるからである。
 p98
 もっとすごいのは明治維新である。なにしろ徳川三百年、仁義礼智信忠孝悌でまっすぐ来たものを、今日からは鹿鳴館で西洋近代。考え方の筋がどこでどうつながるのか、日本人である私にも、いっこうにわからない。
 中国や韓国が歴史問題で騒いでも、ふつうの日本人にはピンとくるはずがない。戦争をはさんで思想をどう改変したのか、中国や韓国はそれを知りたいだろうが、「俺には思想なんかない」という人たちの集まりでは回答のしようがない。
 そういうときには、日本ではただ「やむをえない」というのである。敗戦のときの陛下のお言葉にも、「やむなきに至り」という表現があったはずである。この転換の極端さには、自分の国の歴史ながら、ほとほと感心してしまう。
 「俺には思想なんかない」という思想は、ことほどさように強い。そもそも「ない」んだから、説明の必要がないのである。

「世界はひとりでにそうなった」というのが古事記以来の日本の「思想」である 若いときに私は、「日本思想史」を素人ながら学んでみたいと思ったことがある。しかしそんなものはほとんどなかった。どうしてないんだろうと疑問に思ったが、今ではよく分かるような気がする。それが「日本の思想」だったからである。これを加藤典洋氏ならニヒリズムと呼ぶであろう。
 丸山真男によれば『古事記』『日本書記』でいちばん頻出する語は「なる」であるという。植物のおのずからなる発芽・生長・増殖のイメージとしての「なる」が、人間世界にも浸透しているのである。日本最初の正史が編纂されたころ、植物世界と人間世界は非常に単純なパラレル関係にあった。それ以来、「ひとりでにそうなった」というのが、日本の思想なのである。
 考えてみれば、これだけが「日本の思想」である。儒教仏教も、もちろん西洋哲学も、すべてレンタルの思想である。自前の思想など考え出したこともなかった。唯一考えたのは、果物やイネの成長をボンヤリと眺めながら、「年が変われば、ひとりでに何かができるさ」という圧倒的に「現実的」な、「無思想の思想」だった。中国や西洋から借りてきたレンタルの思想などは、「無思想の思想」では国際的にいくらなんでもバツが悪くなったときだけ、臨時に用立てれば、それでいいのだった。
 p147
 日本に思想はないということを考えていくと、さまざまな日本的特質の説明ができる。日本人が「形を重んじる」のは思想がないからである。形に思想はいらないからである。しかし形は動かしがたい。同時に形は眼に見えるから、それは自分がそこで生きている「現実」だと思われやすい。
 茶道なり武道なり、神道仏道修験道なり、日本の伝統的な「道」を、思想として説明するのは困難である。言葉による思想表現の代わりに、所作、すなわち身体技法の形が重んじられる。世間ではよくそれを「理屈ではない」という。理屈ではないというより、「言葉ではない」ということだろう。このようにして、「思想なんかない」という原理は、言葉による思想を抑圧する。