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長谷川 宏 『日本精神史・上』(講談社)2/4

 第十二章 浄土思想の形成

 平安中期になって
 インド・中国由来の浄土思想は日本太古の汎神思想と溶け合った

 京都府の南部、木津川市にある浄瑠璃寺は、宇治川のほとりにある平等院鳳凰堂が往時の都会風の華やかな美しさをたたえて「里の極楽」と呼ばれるのに対し、古さびて落ち着いた静かな「山の極楽」と呼ばれている。
 木々に囲まれた浄瑠璃寺の庭は森閑と形容するにふさわしい静けさに包まれている。自然の持つ静けさだ。木々が、山が、森がどこまでも続いているように思える静けさだ。この山の寺では自分の身を置く自然がどこまでも広がっているかに見える。無限ということを論理的に考えれば、自然とて無限であるはずはないが、この山の寺の自然が人間世界をゆったりとつつむ存在として、「大」自然として、イメージされるとき、その広がりを「無限」の名で呼ぶことにさほどの違和感はない。「大」自然の大きさには人間の分別や尺度を超えたものが確かにあって、森閑とした山寺を包む自然はそうした「大」自然に通じている。
 思えば、日本古来の自然崇拝や自然信仰も自然を無限のものと感じる「大」自然観にまっすぐ通じるもので、とすれば、「山の極楽」の作り出す自然との調和は仏教思想の次元を超えて、はるか縄文時代にさかのぼる日本精神史に深く根ざすものということができる。

 善いものでも悪いものでも、特別の威力を持ち人間に畏敬の念を起こさせるもの、それが古代人にとっての「神」であった。奈良盆地の東方にそびえる三輪山が、晴れの日も雨の日も変わらぬ美しい姿をしてそこにあることが特別のこととして人々に感じ取られれば、そう感じる大和の人々にとって三輪山は神であり、同じように、北九州の玄界灘に浮かぶ沖ノ島が暴風雨や荒波に耐えていつに変わらぬ姿を保つことが不思議なことに感じられれば、そう感じる沿岸の人々にとって沖ノ島は神であった。
 そのような讃嘆と惧れと願いを懐いて神と向き合うことが、神を祀るということだった。具体的には、あたりを掃き清め、供物をささげ、楽を奏し、手を合わせ、頭を下げるといったことだが、古代人はそうやって神の威力を引き出したり鎮めたりしてきた。

 浄瑠璃寺という山の寺にあって、その「大」自然に包まれていると感じるとき、わたしたちは仏教の浄土思想と日本古来の自然崇拝とが接する地点に立っている。わたしたちの生きる世界が「大」自然に包まれてあるという古来の自然観が、外来の浄土思想によって生命を吹き込まれ、新しい形の自然崇拝が呼び起されているのだ。
 そのとき、無限に通じる「大」自然は、この世のものでありつつ、この世をはみ出す大きさを持つものとしてイメージされる。浄土庭園を包む「大」自然が無限の広がりを持つとすれば、その無限はこの世とあの世の境界を廃棄すると考えられる。無限の大きさはこの世を超えてあの世まで広がると考えられる。
 かくて、本堂に九体の阿弥陀如来像を安置する平安朝末期の浄土寺院の中で、境内の森の「大」自然の広がりを感受しているとき、人はこの世にあってこの世を超えた境地にいることになる。目の前の堂や庭園がそのまま極楽浄土ではないが、それがまわりの自然とつながり、その自然が無限の広がりを持つ「大」自然であると感じられるとき、自分のいる世界がこの世を超えた大きさと崇高さを持つと思えるのだ。その昔の人々が浄瑠璃寺を「山の極楽」と名づけたゆえんだ。