毎日新聞の書評欄にあったなんとも大上段に振りかぶった書名が気になった。毎日のこの書評には、上古・上代から江戸時代まで多くの文献が引用されているがすべて分かりやすい現代語訳になっているとあり、そこに惹かれた。著者・長谷川宏氏は東大哲学科を出た後大学闘争を経てアカデミズムを離れ、野にあってヘーゲル、マルクス、レッシングなどの明快な翻訳で評価を得てきた方らしい。
18章ある上巻では縄文時代から鎌倉時代までの、(「はじめに」の言葉をかりれば)卓越した個人のうちや、少人数の集団のうちや、もっと大きな共同体のうちに見てとれる様々な精神の連続と変化のさまが、ものごとの変化を形象の全体として捉えながら力強い論理の道筋を失わない闊達自在な文章の中に、みごとに映されている。単なる宗教史、美術史、文学史にととまらない本書は『日本精神史』の名に恥じないものだ。
最澄と空海とによってはじめて日本仏教はインドと中国の傘の下を抜けることができた。
(以下は空海についての記述のおもな部分を抜き出したもの)
即身成仏の教義を唱える空海には、おのれと仏との一体化の実体験があったに違いない。そのためには超人的な心身の集中力が必要だった。最澄の山修山学があくまで経典と教理に向かうものだとすれば、空海の山修山学は外へと、宇宙との合一へと向かうものだった。
空海晩年の代表作『十住心論』は人間の心の動きとありさまを包括的にとらえた、日本の思想書としてはたぐいまれな体系的著作である。空海がこれこそ仏教の神髄だとして信奉するのは、大日如来を宇宙の原理として掲げ、即身成仏をもって心身の究極の境地だとする真言宗なのだが、仏の教えや仏者の心を論じるとなると、空海は信奉する真言宗にとどまってはいられない。論は華厳宗、天台宗、三論宗、法相宗におよび、さらには小乗仏教の声門・縁覚の心境にまでおよぶ。それだけではない。空海の旺盛な知的好奇心と包括的な観念的構想力は内外のさまざまな仏説と物心を超えて、世俗の倫理道徳や悪心・悪行の世界にまで触手を伸ばす。
そのように知的好奇心と観念的構想力が外へ外へとかぎりなく広がっていく空海の思索は、対立する旧仏教思想との激しい論争の中でおのれの足もとを固め、おのれの思想を研ぎ澄ます最澄の思索とはあざやかな対照をなすが、平安初期の二人の仏教思想家の思索のさまは、対照的な形をとりつつも、インドや中国の思想を手本と仰ぎ、それを祖述するという段階を、日本仏教がはっきり超え出たことを示すものであった。
そして、二人の思索が天台教団と真言教団の礎となったということは、二人のみならず、日本の仏教界がインドや中国の傘の下から抜け出し、独自の仏教思想の世界を作りつつあることを示すものであった。最澄が実践的にも思想的にも他宗派との激しい対立と抗争の中に進んで身を置き、対立と抗争を発条としておのれの思想を深め確かめて行ったのに対して、空海は、心身を極限の緊張に耐えうるまでに鍛え上げることによって、宇宙の全存在との融合・合一の実感に達するとともに、他方、知的な好奇心と構想力を自在に羽ばたかせることによって、仏教の枠を超え出るような思想体系を構築しようとしたのだった。
空海が東寺の近傍に立てた学校「綜芸種智院」は、空海の知性の幅の広さをさながらに示している。仏教・儒教はもちろんインドの諸科学や全東アジアの諸学・諸思想が教育課程に含まれ、それを僧俗共学の形で学ぶことになっていた。空海の知と思考と活動のスケールの大きさは、日本精神史上、類を見ないものだった。