アクセス数:アクセスカウンター

吉川浩満 『理不尽な進化』(朝日出版社)3/3

 偶発的事象であることを分かっていながら
 「どうしてこうなった」と問うてしまう。

p369-71
 社会学者の大澤真幸は、阪神淡路大震災で被災したある女性について語っている。彼女は震災の朝、とくに理由もなくふだんより10分程早く寝床を離れたのだが、それが彼女と夫との命運を分けることになった。二階にいた彼女は生き残ったが、一階で寝ていた夫はがれきの下敷きになり亡くなったのである。(世の中にこういう不運はよくあることだが) 彼女はそれ以来ずっと、自分の「責任」に苦しめられることになった。それは、「死んだのは自分でもよかったのに、夫の方が死んでしまった」という責め苦であり、その苦しみは全身麻痺と離人症という激しい症状をともなうものだった。
 大澤は、彼女を苦しめた罪の意識を、ヤスパースの概念を借りて「形而上の責任」と呼んだ。ヤスパースは刑法上の罪、政治的な罪、道徳上の罪に加えて、形而上の罪という概念を提示した。前の三者がある選択に対して課せられる罪であるのに対して、形而上の罪とはどんな選択や行為とも無縁に成立する罪のことだ。

 ・・・・・こうした事態に出会うとき、私たちはしばしば「どうしてこうなった」と慨嘆する。そのとき私たちは、すべては超常現象などによってではなく、自然法則によってそのようになるべくしてなったということ、いまさらそれを動かすことなどできないことを正確に理解している。しかし同時に、そのようになるべくしてなった事態の裏側には「ほかでもありえた事態」がぴったりと貼りついていることもまた、正確に理解しているのである。「どうしてこうなった」という慨嘆は「ほかでもありえた」という認識と表裏一体なのである。
 理不尽さとは、こうした「どうしてこうなった / ほかでもありえた」偶発的事象に対して私たち自身が抱く人間的感覚である。・・・・・理不尽さとは、このような偶発性に対する私たちの人間的・形而上学的反応なのである。それがなぜ人間的・形而上学的なものであるかといえば、先の形而上の責任と同様にたとえあらゆる学問的説明が与えられようとも、その感覚が解消されるわけではないからだ。
 ・・・・・・学問=科学は、答えられる問いを(自らあるいは他から)立てられたときにそれに答える営みである。その管轄外のことに対してまで、私たちは学問=科学に負担を強いてはならない。その管轄外のことにたいして学問=科学から答えが返ってくるように思ったとき、その答えには「劇的な詩」とか「自分を吊り上げるクレーン」のような欺瞞が混じっているだろう。これは、自己遡及を重ねて宗教というものを創り出した人間だけが陥りやすい罠である。6500万年前の恐竜は巨大隕石の衝突という偶発的事象に対して、「どうしてこうなった / ほかでもありえた」と慨嘆することはない。慨嘆してもしなくても、理屈に合わないことは必ず起こる。自然は人間になんて興味ないのだから。