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池澤夏樹編集 『日本語のために』(河出書房新社)4/4

 p432-5 永川玲二 『意味とひびき』 幕末から明治にかけて日本の知識階級はまことに多彩な、ぜいたくな言語生活をしていた。彼らは何種類もの文体を、場合により必要に応じてみごとに使い分ける。手紙ひとつ書くにも、たとえば女が相手なら 
「一ふでまゐらせ候 寒さつよく候へども いよいよおん障なく おん暮しめでたくぞんじまゐらせ候・・・・・・(久坂玄瑞より妻へ)
 男同士なら
 「玄瑞君も益慷慨過浪華至京至愉快々々、京至之事実可悦可懼実に天下之安危於是決矣・・・・・・(高杉晋作より久坂玄瑞へ)

 同じ国語とは思えないほど異質の文体だが、彼らはかくべつの努力なしに両極端を使いこなした。しかも、こまやかさとか勢いのよさとか、それぞれの文体の性能をよく生かしている。手紙ばかりではない。感興の発するままに彼らはときに和歌を、漢詩を、俳句を作り、ときに今様、都都逸をひねる。別に文学マニアではない多忙な武士や町人が、千数百年にわたる多元的な文学伝統の遺産をすべて身近なものと感じ、即座にそれを活用するという事態は、世界の歴史にも珍しいだろう。

 堪笑書生抱杞憂  乾坤自古事悠々 
 狂人別有胸間快  無日無登売酒楼

 きれてくれろと やはらかに 真綿で首のこわいけん
 八千八声のほとときす 血を吐くよりも猶つらい
 三千世界の鴉をころし ぬしと朝寝がしてみたい

 上はいずれも高杉晋作のものだが、彼をはじめとするこうした人たちの器用さの源泉として、おおざっぱに二つの事情が考えられる。まず和漢の書に関するかぎり、彼らが現代の知識階級よりずっと確かな素養を持っていたこと。そして、彼らが使い分ける文体や詩形が、いずれも高度のマンネリズムに固まっていたこと。
 さまざまな観念、イメージ、情緒、語法、リズム、主題などが彼らの教養の抽斗の中ではすべて整然と分類してある。天下国家はおおむね漢文脈のなわばり。まじめな恋愛なら短歌、粋人の浮気程度なら都都逸をそれぞれ本籍地とする。だから、たとえば特定の風物を短歌に歌おうとすれば、季節・背景・気分に応じて語句にもイメージにも、便利な既製品が抽斗の中たくさんあることになり、ひとかけらの文才がそこに参加すればかなり詩らしい詩ができてしまう。
 高度のマンネリズムは多くの、科挙時代の中国や16世紀末のヨーロッパなどでも、多くの人間が楽に詩をつくるための必要条件であり、その必然的結果でもあった。わが国においては、王朝時代から幕末までの文学的伝統の中で、ほとんどの文体や詩形が分業の強化による洗練を重ねた。短歌では『万葉集』の壮大なイメージと激しい語調はしだいに姿を消し、漢文脈ではもっぱら爽快な禅味、老荘風の達観、慷慨調に磨きがかかった。幕末の頃にはこうした分業がすでに極度に細分化し安定していたから、いつどこでどのような感慨に襲われても、彼らは表現形式に迷う必要がなかった。

 文久3年の春、将軍家茂の上洛という政局大転換のときにあたって長州の志士たちが京都に集まっていたとき、品川あたりの茶屋で酒びたりになっている高杉晋作には、たぶん微妙な思いがあった。「青二才どもあわてるな、おれにはもっと遠大な計画がある」という気負いと、「たしかにおれは遊冶郎だよ、不粋な忠告はやめてくれないか」という皮肉な笑いの同居。
 西洋人から見れば「曖昧・無責任・不決断な日本人」の見本がここにいるだろう。この心性によって、「いつのまにか太平洋戦争に“ひきずりこまれた”のだし、敗戦直後にさっさと一億総懺悔したのだし、以来世界の先進国で1発も海外で銃をを打っていない唯一の国になったのだから。そしてもちろん、あとの時代の「歴史好き」のひとびとはほとんど全員高杉晋作の大ファンである。