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山本義隆 『近代日本一五〇年』(岩波新書)1/3

 近代科学史の名著『磁力と重力の発見』(全3巻・みすず書房)を2003年に上梓した著者が、明治以来の日本の近代史を科学技術興隆史の視点から総浚いしたもの。『磁力と重力の発見』は物理学の鍵概念である「力の遠隔作用」が、西欧においてどのように「発見」されてきたかを丁寧に説く浩瀚な書だった。(本ブログ2012年9月3日~10月12日)

 そこでは、何であれ「発見」というものが、あるとき突然なされ一直線で「真実」となるものではなく、一人あるいは数人の図抜けた人間が、その時代を並走する類似カテゴリーの空想、信仰、思い込みなどを、牽強付会にも似た思弁によって「理論化」し、「真実」として完成させる、そうしたことが往々にしてあることを多くの実例をあげながら実証していた。

 このとき「理論化」にあたって強力な武器になったのが西欧人の「論理」の力だった。この「論理」の力こそが「第一原因論」をふくむ宇宙のすべてのヒエラルヒーを説明する近代哲学と近代数学を生み、近代数学こそが近代物理学を生み出した。その意味で、20世紀までに全世界を制覇した科学技術が、キリスト教観念論の精密論理学をそなえたヨーロッパのみに出現したのには、充分な理由がある。

 わが国が開国するに当たり、「たまたま」完成期に達していた西洋近代科学の果実をまるごと受け入れるタイミングにあったことなど、明治期の日本が本当に運に恵まれていたことなどから本書は説き起こされる。

 

第2章 資本主義への歩み

 明治初年の科学技術教育を推進したのは
 天皇親政を旗印とするもとテロリストたちだった

 p46

 明治初年において産業基盤と社会基盤の整備をすすめ、工業化を牽引したのは内務省に先んじて設置された工部省である。工部省は鉄道、鉱山、土木、造船、電信、製鉄などを中心事業として、民間に資本の乏しかった状況下で、自身で官営工場を建設し、経営に乗り出し、その近代化・工業化に必要な技術官僚・技術士官の育成に取り組んだ。ちなみに、これらの原資は、基本的には地租、すなわち農民からとりたてた租税だった。

 工部省によるこれらの政策と先行的技術者教育を推進したのが、俗に「長州ファイブ」と呼ばれた井上馨、井上勝、山尾庸三、遠藤謹助、そして伊藤博文である。彼らは幕末にイギリスに密航して、現地で実学を学んだ経験を共有している。とくに山尾は1871年に工業人材育成のための学校創設と海外留学制度を上申して工学寮創設にたずさわっており、のちにそれが工部大学校に発展し、現在の東京大学工学部の前身となった。

 上記のようなことは大概の書物には書かれているが、彼らが日本を脱出する前に何をしていたかは、あまり書かれていない。大仏次郎の長編『天皇の世紀』や司馬遼太郎の短編『死んでも死なぬ』によると、彼らは高杉晋作を首領にして1862年12月に品川御殿山に建設中の英国大使館を焼き打ちしたときのメンバーであり、そればかりかその八日後、山尾と伊藤は、塙保己一の息子で幕臣国学者・塙次郎が廃帝の典拠を調べているという根拠なき風説をもとに、待ち伏せして斬殺している。
 彼らは攘夷をとなえ天皇親政をめざすテロリストであった。司馬は、実際に塙を斬ったのは山尾だとしている。

 p58-60

 古典力学電磁気学、そして熱力学の原理が
 ほぼ出そろった時代に日本は開国した

 日本の開国はタイミングに恵まれていた。日本が近代化に乗り出した19世紀後半は、西洋諸国で科学研究が社会的に制度化され、それぞれの分野において研究を職業とする「科学者」が生まれた時代であった。そんな次第で日本は、はじめから科学を社会的に制度化された学問として受け入れることができたのであり、それゆえ、科学の習得や研究が国家の枠組みの中で組織的に能率よく行われることになった。

 そして同時に、その時代は、欧米においていわゆる古典物理学、つまり私たちが直接見たり触ったりすることが可能な巨視的世界の現象についての物理学である古典力学電磁気学、そして熱力学の原理がほぼ出そろった時代でもあった。
 当時はすべての物理現象はこれでもって原理的に説明がつくと考えられていた。微視的世界、つまり原子や分子の世界では古典物理学が適用できないと判明するのは20世紀になってからで、19世紀後半では物理学においては新しい発見はもはや望めないとさえ考えられていたほどである。素朴で納得しやすい物質現象と常識的で日常的な時空概念を基礎とする古典物理学がすべてであり、この点で、習得する日本側にとってもハードルは低かったと思われる。

 まさにその絶妙のタイミングで日本は西欧科学の移植を始めた。このことが、次の時代、つまり20世紀初頭の長岡半太郎による原子模型の提唱、1910年代の石原純による一般的な量子条件の定式化のような、世界に足跡を残しうるだけの先端的な研究が生まれることになる背景であった。開国が50年早くとも50年遅くとも、日本が欧米の物理学に追いつくのは大変にむずかしかったと思われる。