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米本昌平 『遺伝管理社会』(弘文堂)

 ナチズムの異様さを「優生学」の側面から説こうとした本。優生学はこの間まで日本の公衆衛生学にも存在していた。
 1989年に初版を読んだときは気づかなかったが、著者はこのテーマを書こうとした人にしてはハナ・アーレントを読んだ形跡がない。p171に、「600万人のユダヤ人をひそかに殺害するなどということは、そうとう能力ある人間が、計画的に行わなければ不可能であったことだけは間違いない」と書いているが、この一文は作者がナチズムの本質の一つを見逃していることを告白している。その本質とは、アイヒマンがどこにでもいる「普通人」であり、だからこそ彼のすさまじい愚行は今後のポピュリズムの中でいつでも再現され得るということだ。
 とはいえ、改めて教えられるところも多くあった。
たとえば「ナチス下のドイツは優生社会と見るよりは超医療管理国家とみなす方がはるかに正確だということ。その基本骨格は1934年の「保険事業統一法」によって与えられた。これはナチス以前のさまざまな保健福祉事業を一元化しようというものであり、全ドイツ人を国家丸抱えで健康管理しようという政策である。
 ナチス時代のドイツ国家は個人の健康に関して異様に関心を持っていた。病気にかかることは同胞社会に負担をかけることであり、健康であることが国民の義務となった。この「保健事業統一法」は日本の保健政策にも影響を与え、現在の国民皆保険制度の思想的な源ともなっている。(p138)
 「病気にかかることは同胞社会に負担をかけること」という考え方は、風邪の季節になると見られる電車乗客の(とくに女性の)8割がマスクをかけるという、外国人がびっくりする日本の異様な光景をよく説明してくれる。あの時代のドイツと同様、日本の国家は個人の健康に異常な関心を持っており、その国家の関心が個人一人ひとりに乗り移って、個人の最大関心事にもなっているわけだ。
 アイヒマンのように陳腐な「普通人」であり、自分たちが何ものであるかを知りたくはない私たちは、私たち一人ひとりの健康に関して国家が異様に関心を持っていることを、ただありがたいとしか思わない。みんなが同じことをするのにあまり違和感を覚えない。世界で最も国家管理社会民主主義が発達した国の民である私たちは、それどころかもっともっと個人の安全や長寿命に関心を持ってくれとさえ訴えている。その意見が、ますます読むところが無くなった新聞に載らぬ日はない。

 本書の「あとがき」で著者の国家社会政策に対する思想的立場が鮮明にされ、いたるところにある全体主義現象への危惧が述べられている。
 p211 
 私が優生学の支持者でないことなどいまさら書くまでもないだろう。何がナチ的であり何がそうではないか、その基準自身に自明な根拠があるわけではない。そのよい例がオリンピックの形態だ。壮大なスタジアムの建設、軍事パレードのような開会式、国家元首によるおごそかな開会宣言、民族の祭典というキャッチフレーズ、アテネからの聖火リレー・・・・・・これらはすべて1936年のベルリンオリンピックで確立されたものであり、ナチス宣伝相ゲッペルスが巧妙に企画したナチス式様式美の反映だった。

 著者が言うように、ナチス式様式美はいまでも多くの分野に通用する現代性を持っている。巨大な応援旗が何十本も振られるサッカースタジアムの風景は日本リーグ独特のものと思っていたが、なんのことはないドイツリーグの試合をTVで見ると、ちゃんと大応援旗を振っていた。日本とドイツはよくよく似た国なのだ。