アクセス数:アクセスカウンター

カミュ 『ペスト』(新潮文庫)

 学生以来の再読。ペストとはナチズムのことだとして読むと分かりやすい。学生の頃、ハナ・アーレントの本はまったく知らなかったからそのような視点は持つことができなかった。
 (アイヒマンのような)ごく陳腐な人間が方法的に組織されたとき未曽有の悪を実行することと、ごく陳腐な桿菌の一種であるペスト菌が「環境条件」次第では一国を滅ぼすような悪を実行することは、生物社会学的には同じレベルの話である。
 だから、攻撃される側の対応策も似たようなものになる。「環境条件」を挙げれば、どちらも、全員がパニックに陥って逃げ惑うことが最悪の結果につながる。八割の人間が逃げ惑うのは仕方がない。残りの二割の中に、敵の 弱点を探り、味方の連絡網について考え、わずかな武器を効果的に使える勇気ある人間がどれだけいるかで、すくなくとも全滅を避けることができる。

 フランスレジスタンス戦線を率いたカミュを思わせる医師リウーが主人公。(アウシュビッツのように)死者の山を塹壕に埋めなければならなくなったことによって、宗教思想を急転させるイエズス会修道士パヌルー、毎日の患者数を愚直に記録し続けて大局的な病勢把握に貢献をした老官吏グラン、ペストとは何かというスコラ的思索ノートを書き続けるタルー、正しい意味での聖女のようなリウーの優しい母親、たまたま訪れた街がそっくりそのまま伝染病隔離され、帰れなくなってしまった新聞記者ランベール、ペスト非常事態のおかげで警察の追及を逃れ続けている犯罪者コタールなど、幾人かの目立った人物が登場する。彼らはみなナチス=ペストに取り囲まれた状況での生き残りかたを、それぞれの生き方で示すのだが、誰ひとりヒーローとして果敢な行動示すのではなく、ただパニックになることだけを強い意志で抑えて、そのことが市民生活が全体として内側から崩壊するのを防ぐことにつながっていく。
 若きカミュが対ナチレジスタンス戦線で果たした大きな仕事を考えれば、次の書き抜きのなかの「ペスト」はあきらかに「ナチズム」だ。すなわち、「ごく普通の人々の陳腐な悪」が組織化されたときのすさまじい世界である。であれば、レジスタンス側も「ごく普通の人々のすさまじく陳腐な善」を徹底しておし進めなければならない。
 p194-5
 ペスト保健隊で献身的に働いた人々も、事実そう大して奇特なことをしたわけではない。彼らはなすべき唯一のことを知っていたのであって、それを決意しないことの方が、当時としてはむしろ信じられぬことだった。こういう隊が作られたということは、市民たちが深くペストの中に入り込むことを助け、病疫が現に目の前にある以上は、それと戦うためになすべきことをなさねばならぬということを、彼らが納得したということである。こうしてペストは現実にそのあるがままのもの、すなわちすべての人々にかかわりのある事件として、市民の目に映るにいたった・・・・・・・。
 ・・・・・・当時は大勢の新しい道学者が市内に横行し、ペストの前には何ものも役に立たないし、ひざまずくより仕方がないとふれ歩いていた。しかしリウーやタルーや彼らの友達の結論は、しかじかの方法で戦うべきで、ひざまずいてはならぬということであった。できるだけ多くの人に、死んだり最期の別離をさせないことであった。そのためにはペストと格闘する以外に方法はなかった。彼らにとってこのことは別に驚嘆することでもなんでもなく、ただ当然に帰結であったにすぎない。
 p202-3
 彼らがいわゆるヒーローなるものの手本であるかといえば、彼らにはわずかばかりの心の善良さと、一見滑稽な理想があっただけである。・・・・・・彼らが善き意志を持っていたことは確かであり、それが生命の危険を冒していたことも事実である。そして歴史においては、これらの意志や行動が死を以て罰せられることがあることも彼らの知るところであった。しかし彼らにとっては、いかなる懲罰や褒章が自分たちを待ち受けているかを知ることではなかった。彼らの決すべきことは、自分たちが果たしてペストの中にいるか否か、そしてそれに対して戦うべきか否か、ということであった。
 だから、彼らがヒーローであるかどうかは第二義的なことにすぎない。彼らが幸福の追求者であったかどうかこそまず問われるべきであり、彼らのヒロイズムはその次の問題である。当時空路と陸路から送られてくる救助物資と同時に、毎晩、電波であるいは新聞紙上で、同情と称賛の言葉の洪水がこの孤立した街にとびかかってきた。そしてそのたびごとに、叙事詩調の、あるいは受賞演説調の調子がリウーたちをいらいらさせた。
 もちろんリウーたちは外の人たちからの心遣いが見せかけではないことを知っていた。それは外の人たちは、自分を「人類の戦い」に結びつけるものを表現しようとする場合、慣例的な「言葉」を使う以外方法がなかったからである。支援の「言葉」とはそういうものであり、戦いの外にいる人たちはその言葉しか使うことを知らないのであり、戦いの場にいる人たちはどうやってもその無神経さにいらついてしまうのである。ゲシュタポペスト菌は「言葉」など知ったことではないことに外の人たちは気づかないからである。