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[阿部謹也 『中世賤民の宇宙』(ちくま学芸文庫)2/2

p317−8
 メルヘンは、「人間に内面が存在しなかった時代」に生まれた
 古代、中世ゲルマンの民間伝説に由来するものが多いグリムのメルヘンは、ほとんど例外なしに個人という小宇宙から大宇宙を垣間見たものである。
 メルヘンの主人公は基本的にはひとり旅をする。ひとりで旅をし、災難に遭って、必ずどこかで救い手が現われる。その救い手というのは全部、妖精とか植物とか動物とかの形をかりて大宇宙から来る。決して人間、仲間の人間ではない。そして分かれ道に来たりすると主人公はその助けを借りて、右か左かにぱっと迷わず進む。逡巡することがない。また、相手方から難問を課されても少しも苦しむことがない。困ったことになりそうになると必ず助け手が現われてすべての難問が解決されるようになっている。
 もう少し考えると、内面性というものを持たないのがメルヘンの主人公ということである、ということがわかる。内的葛藤がないと言い換えてもいい。苦しみはもちろんある。たとえばシンデレラは話の前半はとても苦しんでいる。小さな家の中でいじめられて日常的に苦しんでいる。しかしシンデレラの苦しみは逡巡とか自己嫌悪とか内的葛藤とかいうものではない。彼女は大宇宙が遣わしてくれた妖精と触れた瞬間に世界が広がってゆき、すべてがうまくいくようになる。

 考えてみれば、「内面」が発見されたのは近代になってからなのだから、古代、中世のメルヘンの主人公に内面性がないのは当たり前である。自分の死んだ後のことまで知っていた神が近代になってにわかに疑わしくなったのだから、自分とは何かを自分で考えなければならなくなった・・・・・。だからいやいやながら内面というものが発見されたのだ。
 柄谷行人『日本近代文学の誕生』によれば、わが国で内面が「発見」されたのは明治十年代らしい。市川団十郎が当時大根役者といわれたのは、その演技が新しかったからである。彼は古風な誇張した科白をやめて、身体をいたずらに大きく動かす派手な演技よりも、精神的な印象を客に伝える表現に苦心した。それが当時の観客には大根の演技と映った。
 もともと歌舞伎は人形浄瑠璃にもとづいており、人形の代わりに人間を使ったものである。「古風な誇張した科白」や「身体をいたずらに大きく動かす派手な演技」は、舞台で人間が「人形」化するために不可欠だったのである。それまでの観客は、化粧によって隈どられた顔にこそリアリティを感じていた。いいかえれば、「概念」としての顔に「肉体」を感じていたのである。近代以前とは要するにそういう時代だった(本ブログ 2015年3月30日)。