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丸山真男 『偽善のすすめ』(岩波全集第9巻)

 p325-8

 なぜ偽善をすすめるか。動物に偽善はない。神にも偽善はない。偽善こそ人間らしさの象徴ではないか。偽善にはどこか無理で不自然なところがあるが、しかしその無理がなければ、人間は坂道を下るように動物的「自然」に滑り落ちていたであろう。

 日本のカルチュアのなかでは偽善の積極的意味はさらに大きい。江戸時代において、偽善に対してもっとも痛烈な批判を行った思想家が「なにくれの道、かにくれの教」をすべてからごころとして否定した本居宣長であったことは偶然ではない。
 たとえば宣長は言う。<世の法師などの仰がるる人、あるひは学者などのものしり人、月花をみてはあはれとめづる顔をすれど、道行くよき女の顔みてはそしらぬ顔して過ぐるはまことや。もし月花をうるはしとめづる心あらば、など美しき女に心の動かざらん。例のいつはりなり>――これはまさしく後世の文学者や「庶民的」評論家が「謹厳な大学教授」の偽善をからかうステレオタイプの原型である。

 ・・・つまり、われわれの精神風土においては、「偽」善の皮をひんむいてゆくと、その奥にいつもきまって、善ではなくて、官能――それがどのように洗練されたものであれ――が「本性」として現れることになっている。自然主義が裸体主義になり、「人間的」なつきあいが「無礼講」に象徴されてきたことに、何の不思議があろうか。ここでは露悪的にふるまうことが実はもっとも安易に周囲の信頼を得る途なのである。

 上のような日本のカルチュアは、われわれの社会行動が「演技性」に乏しいこと、それだけでなく、演技的行動の中に「まごころ」ならぬ不純な精神を嗅ぎつける傾向があることと無縁ではないに違いない。
 ・・・さらに勝手に憶測をすすめれば、わが国の人々が政治行動を苦手とし、政治感覚に欠けていることが思い合わせられる。政治こそはまさに高度な演技の世界だからである。シェイクスピアの国のイギリス人は伝統的に(巧みな交渉術をもって鳴る)ステイツマンシップの国であり、その政治感覚は(生真面目な)ドイツ人の目には鼻持ちならぬ偽善として映ってきた当のものなのだ。
 ひるがえってアジアでは、われわれの国の隣に、宣長から偽善の本家本元と烙印を押された中国が控えている。その中国から古来われわれは、無気味なほどの政治的演技力を見せつけられてきたのではなかろうか。