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福岡伸一 『新版 動的平衡』(小学館新書)3/3

 がん細胞とES細胞の共通点

 p164・170

 ES細胞は万能細胞と呼ばれている。シャーレの中で培養できる。そのES細胞は置かれたまわりの細胞と「コミュニケーション」をとりながら、何にでも――肝臓にでも腎臓にでも心臓にでも――なりうる態勢で、施術者の指示を待っている。だから多能性細胞ともよばれる。
 実は、ES細胞にそっくりの特徴を持つ細胞を、もうひとつ私たちはずっと昔から知っている。がん細胞である。ガン細胞はいったんは正常組織細胞として分化を果たして、自分の使命を全うしつつある細胞である。
 ところが、偶然が重なると、分化の過程を逆戻りし、未分化段階に戻ってしまうことがある。それでいて分裂と増殖を止めることがない。このような暴走細胞が身体のさまざまな場所に散らばり、他の細胞の秩序をかく乱するのが、とりもなおさずがんの正体である。
 自分の分際を見失って、しかし無限に増殖することはやめない細胞。この点において、がん細胞はES細胞と極めて似通っており、おそらくは表裏一体の関係にある。私たちがもし、がん細胞にふたたび正気を取り戻させ、人体組織の一部に分化することを思い出させることができたら、私たちはがんを制御することができるはずである。

 しかし、長年の研究を経ても、がん細胞にまわりの細胞と「コミュニケーション」を取らせることに、誰も成功していない。それは生体組織の分化を生体の外側から十全にコントロールするという、現在をはるかに超える科学と技術を必要とするからである。おそらく今後しばらくは、私たちはがん細胞を制御するのとほとんど同じ程度にしか、ES細胞やiPS細胞を制御できないだろう。

 生体組織分化を十全にコントロールするには、その技術に時間の関数が入っていることが欠かせない。生命というプロセスがあくまで時間の関数であり、それを逆戻りさせることは不可能だ、という意味である。
 さきにも書いたが時間の関数とは、「あるタイミングにおいて、部品Aと部品Bが出現し、A・B間でエネルギーと情報がやり取りされ、あるステージが作り出される。次の瞬間には、別の一群の部品C・D・Eが必要となり、手前のステージでの部品A・Bは不必要になるばかりか、そこにあってはならなくさえなる」ということである。
 イギリスの有名なクローン羊ドリーは順調に成長し、どこから見ても正常な羊に育ったが、突然原因不明の病で死亡した。羊の平均寿命のわずか半分だった。ドリーの受精から発生、誕生までの組織分化の時間には、羊の体内時計とタイミングがとれない人間的時計が一緒に入っていたに違いない。