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福岡伸一 『新版 動的平衡』(小学館新書)2/3

 生命においては、全体は部分の総和ではない

 p145-6

 生命は細かく分解していくと確かに部品になる。遺伝子上に設計図がある二万数千種類のミクロな部品に。その部品(タンパク質)は今ではどれも試験管内で合成することができる。

 でも、それを機械のように組み合わせても、そこに生命は立ち上がらない。それはどこまで行ってもミックス・ジュースでしかない。ところが私たち生命はその部品を使って現にいま生きている。ミクロな部品が組み合わさって、動き、代謝し、生殖し、思考までする。
 だから、生命現象においては、機械とは違って、全体は部分の総和以上の何ものかである。私(福岡)はもちろん生気論者ではない。危ういオカルティズムに接近するつもりはさらさらない。私は、総和以上の何ものかは「時間」に由来すると考える。

 生物を物質のレベルからだけ考えると、生命もミクロなパーツから成るプラモデルに見えてしまうかもしれない。しかし生命はプラモデルと違って、パーツとパーツのあいだでエネルギーと情報がやり取りされている。そして、そのやり取りの効果が現われるために「時間」が必要なのだ。より正確に言えばタイミングが。

 あるタイミングにおいて、この部品とあの部品が出現し、それらの部品間でエネルギーと情報がやり取りされ、あるステージが作り出される。次の瞬間には、別の一群の部品が必要となり、前のステージでの部品は不必要になるばかりか、そこにあってはならなくさえなる。このような不可逆的な時間の折りたたみの中に生命は誕生する。

 近代の生命学が陥ってしまった罠は、一つの部品に一つの機能があるという幻想だった。その部品機能主義に囚われると、たとえば青い花が咲く植物には「青の遺伝子」があるということになってしまう。そうではないのだ。青い花を咲かせるという「効果」が生み出されるためには、数十、数百、いやそれ以上の部品遺伝子がかかわり、それらの部品と部品の相互作用がタイミングよく生じる必要があるということだ。きわめて複雑な特殊機能遺伝子がたくさんあるということではなく、比較的簡単な部品遺伝子が絶妙のタイミングで連続的に発現するということなのだ。
 数多くの部品遺伝子の連続発現のタイミングを絶妙に調整しなければならないからこそ、生命の一つの種の進化には数百万年もの時間がかかるのだ。部品遺伝子という物質自体は同じものがそろっている生命種でも、それらの連続発現のタイミングに一つ狂いがあれば、その生命種は容赦なく自然淘汰されてしまう。