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村上春樹 『職業としての小説家』(新潮文庫)1/3

 スラスラ読んでいくうちに読者をいつの間にか謎の井戸の中に引き込んでしまう、平明さと不可解なメタファーが同居する村上春樹独特の文体。彼はそれをどうやって自分のものにしたのか。 40年近く小説を書いてきた職業人としての身上書であるこの本には、その方法論のようなものが、たとえば「ものごとの理屈を作家が説明しようとしてはいけない」とか「謎めいた事件を書く時には謎めいた言葉とリズムで謎めきのありようを作り出さねばならない」というような態度のあり方とかが、ちょっと見には誰にでも理解できるよう書かれている。
 小説家とはどんな人種なのか。オリジナリティとは何か。登場人物の作り出し方。短編小説と長編小説では作家は何を変えなければならないか・・・・、などちょっとでも文章を書いた経験のある人なら興味津々の内容が程よい密度で詰まっている。

  何を書けばいいのか

 p132-7

 僕は古典作品を書いた大作家やいわゆる正統派文学作家が経験したような戦争を体験していませんし、上の世代の人たちのように戦後の混乱や飢えも経験していません。とくに革命も(もどきの革命は体験していますがそれは特に語りたいような代物ではありませんでした)体験していないし熾烈な虐待や差別にあった覚えもありません。
 ですから僕が最初の小説『風の歌を聴け』を書こうとしたとき、「これはもう何も書くことがないということを書くしかないんじゃないか」と痛感しました。「何も書くことがない」ということを逆に武器にして、そういうところから小説を書き進めていくしか、先行する世代の作家たちに対抗する手段はないだろうと。大きなテーマとか経験がないのだから、とにかくありあわせのもので物語を作っていこうじゃないかということです。
 そのためには新しい言葉と文体が必要になります。これまでの作家が使ってこなかったようなヴィークル=言葉と文体をこしらえなくてはなりません。戦争とか革命とか飢えとか、そういう重い問題を扱わない(扱えない)となると、必然的に軽いマテリアルを扱うことになるのだから、そのためには軽量ではあっても俊敏で機動力のあるヴィークルがどうしても必要になります。
 ここで僕が心がけたのは、まず「説明しない」ということでした。それよりはいろんな断片的なエピソードやイメージや光景や言葉を、小説という容器に中にどんどん放り込んで、それを立体的に組み合わせていく。そしてその組み合わせは世間的ロジックや従来の文芸的イディオムとは関わりのない場所で行う。それが『風の歌を聴け』を作るときの基本的スキームとなりました。
 僕はこの経験から思うんですが、「書くべきことが何もない」というところから出発する場合、エンジンがかかるまでは結構大変ですが、いったんヴィークルが機動力を得て前に進み始めると、そのあとはかえって楽になります。なぜなら「書くべきことを持ち合わせていない」というのは、言い換えれば「何だって自由に書ける」という音を意味するからです。たとえあなたの手にしているのが「軽量級」のマテリアルで、その量が限られているとしても、その組み合わせ方のマジックさえ会得すれば、僕らはそれこそいくらでも物語を立ち上げていくことができます。そしてもしあなたがその作業に熟達すれば、そこから驚くばかりに「重く深いもの」を構築していくことができるようになります。
 たとえば倫理という問題。これほど重く深い問題はないかもしれません。あなたが軽量級のヴィークルしか持ち合わせがないとき、その言葉と文体で倫理の繭玉を慎重に物語るのではなく「説明」しようとしたら、それは悲惨な結果に終わるでしょう。
 軽量級のマテリアルをどうやって組み合わせるか、僕の場合その作業を進めるにあたっては音楽が何より役立ちました。ちょうど音楽を演奏するような要領で、僕は文章を作っていきました。音楽の中でも最も説明的ではないジャズがこのとき主に役立ちました。ご存じのようにジャズにとって一番大事なのはリズムであって、歌い上げる「何か」ではありません。的確でソリッドなリズムを終始キープしなくてはなりません。そのつぎにコード(和音)があります。奇麗な和音、濁った和音、派生的な和音、基礎音を省いた和音、いろんな和音があります。みんなおなじ88鍵のピアノを使って演奏しているのに、演奏する人によってこんなにも和音の響きが違ってくるのかとびっくりするくらいです。
 そしてこの事実は僕らに重要な示唆を与えてくれます。たった88のマテリアルしかないのに、「ピアノではもう新しいことなんてできないよ」ということにはならないということです。小説を作る場合、どんなに軽量級のヴィークルでも使う単語が88しかないということはありません。