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プルースト 『失われたときを求めて 3 第二篇 花咲く乙女たちのかげに スワン夫人をめぐって』(岩波文庫)3/13

 翻訳者・吉川一義氏によれば、岩波文庫版全十四巻のうち読者がもっとも苦労するのが第三巻に当たる本巻らしい。スワンとオデットの娘であるジルベルトへの「私」の恋心と自意識が全巻を覆いつくしていて、その全長何千メートルもある蛇のような自意識の流れを書かれたとおりにたどっていけば、とても悠然とソファに寝転がって読み進められる代物ではないことがわかって、読者は途方に暮れてしまう。

 巻末 訳者あとがき p492

 プルーストの愛読者の中には小説に叙情的陶酔を求め、「さわり」だけを拾い読みするだけで満足し、『失われたときを求めて』も好きなページだけを読めばいいと考え、他人にもそう勧める人がいる。どのように読もうと自由ではあるが、そのような人は本巻「スワン夫人をめぐって」のように恋愛や芸術に関する抽象的考察がつづく箇所には歯が立たない。そのような陶酔型読者には、筋の展開をたえず中断して介入する脱線というか、注釈というか、長ったらしい省察などは、わずらわしいだけであろう。多くの読者が『失われたときを求めて』の完読をめざしながら挫折する主たる要因はここにある。

 p140

 前編第三部におけるシャンゼリゼでの出会いを受けて本巻では、「私」がスワン夫妻の娘ジルベルトに寄せる恋心の顛末が延々と語られる。その「私」はやはり、かつてオデットに対したスワンと同じく「自分の想像力がもたらした」<恋のようなもの>の病に冒された少年である。

 一月一日になると、私はお母さんと連れ立って親戚回りをしたが、その道筋にラ・ベルが今夜演じる出し物『フェードル』のポスターが貼られていた。それを見たとたん、私はハッと予感がした。元旦はほかの日と異なる日ではない、新たな世界の始まる日ではない、と感じたのである。
 その直前まで私としては、この新たな世界で、いまだ白紙の可能性を秘めたジルベルトとの交際をやり直せるのではないかと考えていた。あたかも「天地創造」のときように、いまだ過去が存在せず、ジルベルトから味わわされた失望も十二月三十一日をもって完全に消滅する新たな世界では、古い世界から引き続いて存続するものは何一つない、と考えていたのだ。

 元旦のほうは己が元旦と呼ばれているなどつゆ知らず、なんら変わることなくよい闇の中にくれていくのが感じられた。私は家に帰った。「私」が過ごしたのは老人の一月一日だった。その日に老人が若者と区別されるのは、もはやお年玉をもらえないからではなく、老人がもはや元旦など信じていないからである。