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★プルースト 『失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ』(岩波文庫)12/13

 本篇冒頭で、「私」の「囚われの女」だったアルベルチーヌが出奔してしまう。本篇は600ページを超す長大なものだが、その半分以上が不在となった恋人をめぐる「私」の心中の苦悶の描写にあてられている。縺れ合ってほぐせない大きな漁網か、捻転した小腸の絡み合い具合を説明するような、恋心と猜疑心をつづるプルーストのことばの織物は、よほどの忍耐の気持ちがないとただ読むだけでも相当にしんどい。

 訳者の吉川教授も書く。「本篇は、恋人を失った悲嘆が少しずつ癒えていく心中のできごとにのみ数百ページを費やした特異な文学である。これを読了した人は、プルーストの文学がレアリスム小説の対極にあって、いかに豊饒な精神のドラマを展開しているかを実感したことであろう。その意味では本篇は『失われた時を求めて』のなかで最もプルーストらしい巻といえるかもしれない」

 私のようなレアリスム小説しか経験のない読者を悩ませるプルーストらしさは、アルベルチーヌが囚われの女として登場する第10巻以降、たしかにいや増しになる。毎年ほぼ2巻のペースで発行されてきた『失われた時を求めて』もあと2巻になったが、どうも自分の我慢はこれ以上続いてくれそうにない。
 そんな、猜疑と焦燥に取りつかれた「私」に、やがて彼女の事故死の知らせが届く。「私」はその死にたじろぐが、いっぽうでアルベルチーヌの、周囲の女性たちとの激しい性愛関係を彼女の友人・アンドレから露骨に知らされて、恋人の死の衝撃は彼女の人間性そのものへの諦念を含んだ悲しみに変わっていく。そして何か月かの時間がたち、そんな疑念や悲嘆もしだいに忘却なかへ消えてゆき、3巻にわたったアルベルチーヌへの恋もついに終わりを迎える。

 「私」の長い恋を終わらせたきっかけになったのがアルベルチーヌのおぞましい放蕩の報告であったのは間違いない。恋が終わったとき、あれほどアルベルチーヌに恋い焦がれ、彼女の性癖に関するかずかずの噂を信じないことにしていた「私」は、もうアンドレの報告を「嘘だと考える必要はなかった」と考えるようになっていた(p422)。

 吉川教授は「ここにはプルーストの根本認識が表明されている」と言う。「人間の振る舞いを決めるのは、その人にとって都合のいい「思い込み」、そうにちがいないと「信じ込む」力だという認識である。恋愛感情なるものは、この思いこみの最たるものである。愛する女の堅固な素材をすべて提供して、その目鼻立ちを美しく作り上げるのは、われわれ自身なのだ」と。

 ところで巻の中ほどに、原題に含まれる<le temps perdu >の語句は普通、<無駄にすごした時>の意味に使われるという面白い訳注があった。だから本国フランスのある批評家は本作のタイトルは『無駄にすごした時を求めて』というばかげた意味になると皮肉ったことがあるそうだが、これは痛烈な、ある意味根本的な指摘ではないだろうか。レアリスム小説を好む人にとっては、プルーストの「豊饒」な精神のドラマは「時間の無駄遣いドラマ」でもあるのだから。もちろん宇宙の「時間」は私たちに全く関心がなく、時間を使うのに有意義も無意味もあったものではないのだが。このことについては第4巻についての本ブログでもちょっと触れた。