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★プルースト 「失われたときを求めて 4 第二篇花咲く乙女たちのかげにⅡ」(岩波文庫)4/13

 全14巻の4冊目!前途ははるかに遠い!訳者・吉川一義氏は刊行前の約束どおり、半年に一冊必ず出してくる。頭がたれる力業である。ノルマンディー海岸でのリゾート生活を描いたこの巻は本文だけで650ページを超える大冊だが、主人公の「私」の意識の流れ方に慣れたせいもあって、80ページを超えたあたりからはとても読みやすい。全十四巻でも人気の高い巻だという。

 ある少女――たとえばアルベルチーヌに散歩の堤防の上で出会ったとたん、どんなに恋焦がれることになろうと、それは「私」の意識がそのときの流れの途上にあるから「恋焦がれ」が起きたのであって、散歩が終わってホテルに戻ると友人の画家から手紙が届いており、たとえばアンドレの絵画的感性の高さをその手紙で教えられると、その晩はアンドレに会いたくて眠れなくなってしまう・・・・・。そんなことが、読みながら推測できるようになり、これまでの巻のように、登場人物の恋物語の揺れ動きには惑わされないようになった。

 主人公「私」の意識とは、もう一人の「私」が外側から眺めてみればコップの水に落とされたインクの拡散現象のようなものであり、「私という人間の唯一絶対の本性」なるものをさがすのは、「インク粒子の本質」をさがすような、「時を無駄に過ごすこと」であるとプルーストは言っているようにも思う。(おしゃべりなどで無駄に過ごされた時間のことを、皮肉なことに、普通のフランス語では le temps perdu と言う。)

 p538

 われわれは無関係な人の性格には通じているが、われわれと切り離せなくなる人の性格、その人の動機についてあれこれ不安に満ちた仮説を立てては、その仮説をたえず修正せざるを得ないような人の性格など、どうして把握できるだろう。愛する女性については、たとえわれわれがその人の心の軌道を描くことができても、愛しているその女性はそうするのを望まないだろうからである。だから私たちは彼女の「性格」に迫ってはならない。

 よくあることだが、アルベルチーヌはその日、私には以前の日々と同じ人物には見えなかった。おまけにその日のアルベルチーヌは、なぜか上機嫌と不機嫌が頻繁に入れ替わるように思え、私の中でもほんの数秒の間隔で、アルベルチーヌがほとんど無に近い存在になったり、限りなく貴重な存在になったりした。(p462)

 恋という現象が、相手の美醜や人間性によってひきおこされるのではないというプルーストの持論がこの巻でも何度か述べられている。

 p415

 ある女性を愛しているとき、われわれは相手に自分の心の状態を投影しているだけである。重要なのはその女性の価値ではなく自分の心の状態の深さである。それゆえつまらぬ娘の与えてくれる感動のほうが、優れた人と話したり美しい人を眺めたりすることで与えられる喜びよりも、われわれ自身の中の深遠で本質的な部分を自分に教えてくれることがあるのだ。

 この巻は舞台が夏のリゾート地なので、富裕層ならではのスノッブの人間喜劇がホテルや浜辺で皮肉たっぷりに展開される。裁判所長や公証人、弁護士会長たちの会話も面白いが、なんと言ってもゲルマント公爵の親戚にあたるヴィルパリジ侯爵夫人の描き方は読むほうが吹き出すほどに手厳しい。

 p191-2

 ヴィルパリジ侯爵夫人は、貴婦人たるもの裁判所長や弁護士会長たちのブルジョワに対しては、自分が尊大な人間ではないことを示さねばならないという、自分の受けた貴族としての躾を思い出していた。夫人に正真正銘の礼節がただ一つ欠けていたとすれば、その表し方が度を越していた点である。

 夫人は私と祖母がここに逗留のあいだじゅう、つぎからつぎへとバラやメロンを贈ってくれたり、本を貸してくれたり、馬車の散歩に連れ出してくれたりしたのだが、これはフォーブル・サンジェルマンの貴婦人ならではの職業的習性であると断言していい。貴婦人たちは自分が日によってはブルジョワに不満を抱かせる宿命にあることをつねに理解しているから、あらゆる機会をとらえてはブルジョワに対する愛想のよさを帳簿の貸し方欄に記入しておき、借り方欄には、のちのち招待してやれない晩餐会やパーティなりを記載できるようにしておくのである。

 この巻が書かれたのはドレフュス事件がおきた1894年の2、3年後らしいが、さすがのプルーストも当時の世界を覆っていたダーウィン主義、それに派生する人種偏見から自由ではなかったらしい。プルーストにしてこんな記述が、と思わせる数行がときどき見え隠れする。

 ドレフュス主義や聖職者至上主義や封建的な国粋主義は、個人よりもはるかに古い本性から不意に現れ出る。われわれは精神的な面でも、信じている以上に自然の法則に依存しているもので、われわれの精神も、ある種の隠花植物やイネ科植物と同様に先天的に規定されているにもかかわらず、それを自分で選んでいるつもりでいる。
 われわれが把握できるのは二次的思想だけで、その思想を顕在化させる第一要因(ユダヤの血やフランスの家系など)には気づかない。高尚な思想は熟慮の結果に見え、病気はただの不養生の結果に見えるが、マメ科植物がそのすべてをそれぞれの種子から受け継いでいるように、ともに家系から受け継いでいるかもしれないのである。(p532)