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アンドレ・ジイド 『ソヴェト旅行記』(新潮文庫)

 この本は1936年11月に上梓された。ソ連ブルジョア国家の人民にとって希望の国なのか、それとも世界中を共産化しようとする悪の帝国なのか・・・・。敗戦後数年した僕らが子供の頃にも、それはまだ小さなアタマの一部で一応考えなければならない問題だった。大きくなったとき自分の国はどっちの方に向かっているのだろうと。「どっちの方向に向かう」とはどんなことを指すのかということは、子供の僕にはもちろんまったく分かっていなかった。

 翻訳者・小松清によれば、この『ソヴェト旅行記』は刊行3か月でフランスだけで150版を超えたという。フランスだけでなく欧米各国や日本でも、思想界、政界、文壇、ジャーナリズムの世界に喧々ごうごうたる論議を呼び起こし、歴史に残る反響を呼んだ。日本では1937年に「中央公論」新年号に掲載され、その夏には岩波文庫から出ることになったが、3年後の1940年になって岩波は官憲から圧迫を受け、自発的に絶版せざるを得なくなった。ソヴェトに対する痛烈な国家体制批判という点では、日本の治安当局は何も問題にしなかっただろうが、この書が同時に当時の日本を覆いつつあった国家主義全体主義ファシズムに対する辛辣な告発を含んでいることにまことに遅まきながら(!)気付いたのだ。1940年に絶版となったときは、すでに多くの部数が発行済みであり、この僅か100ページほどの小著は当時の日本のインテリや学生、一部労働者の間で最も読まれ、最も反省を促し、影響を与えた書物となっていたそ。

 この『ソヴェト旅行記』には、僕が子供のころに理解すべくもなかった「国がどっちの方向に向かう」ということが誠心あふれる文体で書かれている。「どっちの方向」とは、国家が国民の良心の内側にも入りこもうとするのか、それとも外交、経済、治安という個人の良心の外側だけに専念するのか、という問題である。「誠心あふれる文体」というのはジイド自身がブルジョワ国家フランスを牛耳る保守階級の腐敗を慨嘆し、歴史上初のソヴェト体制に希望を見出した人だったからである。

 ジイドは自分の希望がかの地で実現されていることを確かめるために、ソヴェト政府の招きで数人の友人とともにモスクワ、レニングラード等に1か月の見聞旅行をする。そして現地で、革命教育に洗脳された青少年の分列行進を赤の広場で見、いまの状況に自足しきった青少年の言葉を聞くようになる。国営農場では、収容所のように狭いどの家にもスターリン肖像画が貼られている。街中では、粗悪な生活必需品買い出しのための行列がどこにでもできている。
 それでいてジイドが一般の人たちにどこで話しかけても、彼らは必ず嬉々とした表情を浮かべてプラウダの見出しのような返事を返す、「俺たちの文化はいまはまだ100%ではない。政府の指導によってこれからすばらしく発展するんだ」と。しかもこの人民の政府賛同は諦めによって得られた受動的なものでなく、自発的な真摯なものであり、さらにいえば熱狂的なものであるように感じられるのが、国家と個人を峻別しようとする西欧人・ジイドにはショックだった。

 国家が個人の良心に踏み込む――中世のキリスト教会は個人の良心に踏み込んだがそれは「魂の王国」の問題であり、「肉体の王国」にそのようなことは許されていなかった――という経験を持たないジイドの悩みは深刻で、1936年8月にフランスに帰国するとすぐジイドはこの旅行記を書き始めている。ただちに書き上げ11月に出版した。このスピードがジイドの衝撃と危機感をよく表している。
 この2年後に、個人のすべてをまるごと抱え込もうとする点では何も変わらない二人の狂人・ヒトラースターリンの死闘がはじまる。

アンドレ・ジイド 『法王庁の抜け穴』(新潮文庫)

 アンドレ・ジイドは死後、著作がすべてローマ法王庁から禁書に指定された。『狭き門』では恋人の神への自己犠牲の心を、それは真に率直な人間精神ではありえないとし、キリスト教の偽善に抗議し続けた。1951年に没したが、20世紀全体にわたって日本でも、とくに学生は、何冊かを読まなければならない人だった。この作品も冒頭から、カトリックの事大主義に対する冷笑がところかまわず出てきて、私のような坊主嫌いをスッキリさせてくれる。

 話が進むにつれて、百足組というチンピラ詐欺集団が法王を無理やり退位させ、いまは替え玉が位についている、という面白いネタが出てくる。よく似た陰謀事件が実際にあったらしい。この時代、陰謀といえばフリーメイソンなる実体不明の友愛結社の仕業と相場が決まっていたから、この百足組事件もフリーメイソンの策略だとされた。近世ヨーロッパでは知性があって少し変人の有名人はフリーメイソンを疑われ、トルストイゲーテも疑われた。あの鳩山由紀夫がそうだといわれたことは面白かった。

 それはともかく、サンピエトロ大聖堂には万一の場合に法王を脱出させる地下道が中世に造られており、百足組はそこに法王を監禁していると世間は信じたようだ。
 その世間の噂によれば、ひとりひとりの上流名家が何万フランも喜捨し、階級全体で莫大なカネを用意すれば元の法王を復位させることができる(!)。が、そのためにはパリとローマの枢機卿はじめ何階層もの高位聖職者にわたりをつけ、恐ろしいほどの宗教官僚の階段をジグザグに登りあるいは下らねばならない。そうやって初めて何ごとも最終的にうやむやになって法王が復位し、あやしい替え玉はいつの間にかめでたく消えてしまうことができる。キリスト教会制度は安泰が保たれ、この小説に登場する高貴な女性信心家たち(彼女たちは「ありがたや」とルビが振られている)のまことしやな心の平安が維持されるというわけだ。 

 保守派の信徒新聞はいつも「わたしたちは神に多額の借財がある。本紙読者の日曜ごとの喜捨はその万分の一の返済なのです」とまじめくさって書いている。その保守派業界紙の載せた下の論評が、この事件についての教会と信心家(ありがたや)たちの反応をよく表している。金はあなたのお寺にだけお払いなさい、というわけだ。

 p213

 信徒諸賢に、この際、切に御警戒ありたきことは、僧侶の仮面をかぶったフリーメイソン無神論者)の横行である。この男らはわれらが僧会の会員を偽称し、元法王救出の秘密の使命を帯びているごとく装いつつ信徒諸賢の信頼につけ込み、<法王救助十字軍>と名付けた企画のために金銭を搾取して回っている。かかる企画の名称を見ただけでも、すでにその事実の荒唐無稽であることは明らかといわねばならない。

  翻訳者・生島遼一によれば、ジイドの永年の友人である有名なカトリックの劇作家ポール・クローデルはこの作品を強く非難し、出版を思いとどまらせようとしたという。ジイドの攻撃が誠実なカトリック教徒であるクローデルの許容限度を超えていたからだ。しかし誠実という点では、ジイドもクローデルに負けない誠実な人である。

トーマス・クーン 『科学革命の構造』(みすず書房)

 パラダイムー変わりゆく時代の空気の下にある大きな方程式ーとはどういったものなのか。それを科学分野に限って、たとえばプトレマイオスの宇宙観がコペルニクスの宇宙観に変るという「革命」が起きたとき、その時代の学者の意識の中ではどんなことが起きていたのか・・・・・、著者はそこには常に変わらない<革命の構造>があるということを説く。
 科学哲学の名著だということだが、それほど難しいことを言っているわけではないのに、言葉づかいに昔のドイツ観念論のようなところがあり、また使う単語にも多義性があって、かなり読みづらい。以下の抜書きは、意味だけをとって、だいぶ書き変えている。

 p118-23

 17世紀の科学の伝統に与えたニュートンインパクトは、パラダイムの移行の際に起こる微妙な効果をみごとに示している。
 それ以前にあっては、スコラ学者は、石が落ちるのはその石の「本質」が、石をして宇宙の中心に向かって追いやるからだ、というような説明をしていた。ところが17世紀に入ると、デカルトなどが新しく機械的・粒子的な説明を行うようになり、いろいろな科学分野に大きな実りをもたらすようになった。
 ニュートンはこれらの結果を彼の運動法則の中に取り入れた。作用と反作用の力は等しいとする彼の第三法則は、二つの物体が衝突する際の運動量の変化の問題であり、デカルトなど17世紀の先人が作りあげた力学のパラダイムを受け継いだものである。そしてニュートンの仕事から生じるパラダイムの効果は、当時まだ命脈を保っていたスコラ科学の「正統」な規準に破壊的な変更をもたらした。
 重力を物質粒子間に働く引力と解するニュートン説は、アインシュタイン重力波方程式を知っている今から考えてみれば、スコラ学者の言う「落下の傾向」と同じような玄妙不可思議な説明である。しかし、ニュートンの粒子説の規準が効果を持つあいだは、彼の力学的説明は『プリンキピア』をパラダイムとして受け入れる人にとって最も魅力的な解答であった。18世紀の多くの科学者たちもニュートンにならった。彼の説明の「玄妙」性に違和感を覚える学者は数多くいたが、彼らとて重力をうまく説明できるわけではなかった・・・・・・・・。


 20世紀になってアインシュタインは重力的引力を説明するのに成功し、彼の一般相対性理論は科学を、言ってみればニュートンの先達に近い規準に復帰させた。さらにまた量子力学の発展は、18世紀の科学革命で確立されたかに見える方法上のタブーを逆転させた。いまや、量子力学を用いないでは、化学者は実験室でつくられる物質の結合状態をうまく説明できない。現代物理学における空間は、ニュートンの理論に使われたようなのっぺらぼうで均質な空間ではないのだ。
 この種の判断を長期間にわたって正当化する大きな理論は何も存在しない。実際に起こったことは、基準の絶対的な正誤とは関係がない。ただ新しいパラダイムを多くの人が採用したから変化が生じただけである。そしてこの変化は、さらに逆転することがあり得る。

巴 金 『寒い夜』(岩波文庫)

 舞台は日中戦争最後半、蒋介石の国民党下の重慶。半官半民の出版・印刷会社で校正係として働いている主人公・宣。並みの高等教育は受けたのだが、口数が少なく優柔不断で自分を主張できない性格のためにうだつがあがらない。父親が早く死に、しだいに不如意になる暮らし向きの中で、母親が子猫をなめるように育てた影響が大きい。
 宣には学生時代からつきあっていた美しく活発な内縁の妻・樹生がいる。地方銀行で下っ端として働いている。戦争もそれほどひどくはなかった時代、宣と樹生はやがては共同で私立中学校を設立し、新しい中国の発展に貢献する教育事業に乗り出すという野心も共有していた。しかしいまはそれどころではない。

 日本軍の侵略が中国全土でひどくなり、政界、経済界に何の手づるも持たない若者の人生計画などに一瞥をくれる人などいるはずもない。それどころか宣はいま、政府要人の序文が何十ページも続く誤字だらけの政策宣伝書や、党中央委員様の「名著」をはした金のような給料で校正することで、老いた母親と私立中学に通う出来のよくない息子を養わなければならない。その「名著」には、国民党が農民税制をどれほど改革し、人民生活の向上にどれほど資してきたか、ということが書いてある。もちろん(自分より多い)妻・樹生の給料がなくては、暮らしはまったく成り立たない。

  妻・樹生と姑である母親の女の憎み合いがなんともすごい。母親は当時としては教育を受けたほうなのだが、なんといっても纏足世代の中国女性である。樹生が内縁の妻であるとして、ちゃんと輿に載って嫁入りしてきた自分とは身分が違うというようなことを言う。いっぽう嫁・樹生は現代の教育を受け、一度は夫婦で教育事業に乗り出そうとした女性。おまけに美人で口が立ち、姑に対する敬語はきちんと使いながらも、夫と自分は同格であるということを隠そうともしない。

 物語の後半で、樹生が生活のために、彼女に気がある上司の世話で遠方に転勤することになる。姑は樹生が上司と関係するために息子を捨てたのだと勘ぐるが、そして夫もそれを疑うが、そんなことはない。しかし姑は樹生が任地の様子を知らせてきた文面をさっと見て、自分の思い込みは正しかったと誤読してしまう。彼女は「古い世代の中国女性」として、「腹を立ててはいたが、同時に、痛快に思い、得意にも思っていた。とっさには、これをいいニュースとさえ思った。自分の息子に同情してやらねばならないなど、思いつきもしない」ような女だった。

 

  物語全体のバックグラウンドにいる蒋介石は中華皇帝の名残りを十分にとどめている。その空気の中に育った世代と20世紀生まれの世代間の対立、中国独特の「家」の風習のなかで発酵しつくした嫁と姑の問題、息子によく伝わらない父の思い・・・、主人公・宣はこのあと結核を悪化させ、ひどい苦しみの中で死んでしまう。結核第四期から最期までのむごい苦しみ方が、ここまで書かなくても、と思われるほど詳細に文字にされているのはいささかつらい。

 作者・巴金は父まで3代にわたって県知事を務めた清朝末期の典型的な地主階級出身だという。自身の少年期に家は落ちぶれたらしい。若いときはバクーニンクロポトキンに憧れたアナーキストだったそうだ。

フォークナー 『八月の光』(新潮文庫)

 南北戦争前後のアラバマミシシッピといった南部諸州。下層の白人は、人口の上でもどんどん増えてくるたくましい黒人を、貧しくなるいっぽうの親の仇であり、エイリアンであると思っていたかもしれない。そんな、荒っぽく粗野なアメリカの原風景が、熱い八月の太陽にだらだらと絞り出される汗の模様のように描かれる。
 カルヴィン派長老教会の篤信夫婦の娘が、四分の一だけ黒人の血が入った男と愛し合うようになる。八分の一黒人の男の子が生まれるのだが、狂信的な娘の父親はお産の床に医者をわざと呼ばず、娘をそのまま苦しみの中に捨ておいて死なせてしまう。信仰あつい父親にとって、黒人男と交わった娘は、神から祝福された白人社会全体を滅ぼすようなことをしたのだ。必ずもだえ苦しんで死んでもらわねばならないのである。生まれた八分の一黒人の男の子まではさすが殺さないのだが、男の子はすぐに孤児院の玄関先に捨てられる。


 全篇で、信者が自分一人で向き合わねばならないプロテスタントの怒りの神と、黒人に対する白人の恐怖と、黒人のあまりの無教養と、南部の赤土にぎらぎら照りつける太陽の印象がとても強い。しかもとても長く、章立てが込み入っており、一つの段落の中で異なる時制と叙法が使われているなどして、読みやすい小説とは決して言えない。
 キリストを象徴したらしい神経質な(八分の一黒人の成長した)男と、のどかで「だまされようが何しようが、信じる方が結局は報われるのよ」とでもいいたげな女が一人ずつ出てくる。神経質な男は殺人を犯し、保安官に追われてキリストのように殺されてしまう。
 いっぽう女は白人男に騙されて妊娠し、のんびりと小説の舞台の地まで男を追ってやってきて、月満ちて無事出産し故郷のアラバマまで帰っていく。八分の一黒人男とのんびり女は小説の主人公としては一度も顔を合わせることさえない。不思議な構成だが、さすがフォークナーと言うべきか、または翻訳がいいのか、読者はこの点で作者をいぶかることはない。

 フォークナー自身は韜晦するようなことしか言っていないが、この読みにくい小説で彼は何が言いたかったのか。<ヨーロッパの文化を継ごうとする意識さえない人々>、<ばからしいカルヴィン派の福音宗教がこの工業国で隆々たる理由>、<動物が牙で自分の身を守っているようなライフル社会>・・・・・、いいことも悪いことも何でも信じてしまう田舎の少年が、その欲望をむき出しにしたまま大人になった国、それがアメリカだということだ。そのいちばん上にいまトランプがいる。

田中 修 『植物はすごい』(中公新書)

 身近な多くの植物について、酷暑地や厳寒地でも成長できる秘密、さまざまな毒を持って身を守っていること、病気になるのを防ぐ体内機構など、中学高校生などの生物好きが読んだら熱中するに違いない内容が、易しすぎるほどの文章で丁寧に綴られている。

 p130-2

 強い日の当たるところに育つ植物にはいつも紫外線が当たり続けています。わたしたちは紫外線が有害であり、シミやシワ、白内障の原因になることを知っています。ひどい場合には皮膚がんを引き起こすと心配します。ところが植物たちは、太陽の紫外線がガンガンと降り注ぐ中で暮らしています。そんななかで植物たちは日焼けもせずに、きれいな花を咲かせ、実や種をつくります。
 紫外線は人間にも植物にも同じように有害です。紫外線は植物であろうと人間であろうと、生体にあたると活性酸素を発生させます。この活性酸素は、からだの老化を促し、成人病・ガンの引き金になり、病気全体の90%の原因になるというきわめて有毒な物質です。
 紫外線が体にあたると、植物も人間も、この有害な活性酸素が体に発生します。このため自然の中で紫外線にあたりながら生きていくためには、体の中で発生する活性酸素を消去する物質が必要になります。これが「抗酸化物質」と呼ばれるもので、ビタミンCとビタミンEが代表格です。植物たちは自分の身体にあたる紫外線の害を消すために、体内でこれらのビタミンをつくっているのです。そして私たちはそれらのビタミンが植物の身体に含まれていることをよく知っているので、毎日野菜や果物を積極的に食べているということです。
 ウィキペディアによれば、「活性酸素は1 日に細胞あたり約10 億個発生している。これに対しては生体の活性酸素消去能力(抗酸化機能)が働くものの、細胞内のDNAは絶えず損傷しており、平常の生活でもDNA 損傷の数は細胞あたり一日数万から数10 万個になる。しかしながらこのDNA 損傷はすぐに修復されてしまう。」ということだ。)

マルグリット・ユルスナール 『ハドリアヌス帝の回想』(白水社)2/2

 詩人・歌人でもある訳者・多田智満子は「解説」でハドリアヌスの一生をこう略述する。
 プブリウス・エリウス・ハドリアヌス  76年1月24日生  138年7月10日死  スペイン出身のローマ皇帝。異常な多才の人。軍人・旅行家、かつ有能な行政家。文学・哲学に心を傾け、ラテン語よりもギリシア語をたくみに語るヘレニストであった。皇帝直属の偉大な官僚組織を新たに組織し、それまでは解放奴隷によって占められていた高官の地位に騎士階級の人々をつけた。

 『執政法令』を条文化し、「永劫の法」としてこれを全帝国の憲法とした。トラヤヌスが征服したブリタニアに旅したときは、スコットランドイングランドを分かつ大城壁を築き、「北方蛮人」の文明界への侵入を防いだ。すべての地域で、(税制改革などを通じて)諸民族を寛大に援助し恩恵をほどこしたが、ユダヤ教に対する理解不足から、エルサレムギリシア化しようとして失敗し、反乱を防げなかった。・・・学術と建築の保護者として図書館をつくり、講堂を建て、神殿を築き、凡庸な詩を書いた。死の床にあって、『さまよえる いとおしき魂よ』にはじまる絶唱を遺した。

  本文p46-7

 わたしは姿美しい肉体のような柔軟さと、おのおのの語が直截なさまざまの接触を証拠だてている語彙の豊富さゆえに、ギリシア語を愛した。また、およそ人間の語った最もよき言葉が、ほとんどすべてギリシア語で語られているゆえに、この言語を愛した。

 ほかにも多くの言語があることはわたしも知っている。・・・エジプトの祭司が彼らの古代の象形文字を見せてくれたことがあるが、それは言語であるよりもむしろ符号であり、世界と事物とについてのきわめて古い分類の努力を示すものであり、滅亡した民族の墳墓の中の言語であった。ユダヤ戦役の際に律法教師ヨシュアが、自らの神に取りつかれたあまり人間的なものを無視したエジプトの信徒たちの文章を字義どおり説明してくれた。
 軍隊ではケルト人の言語に親しみ、彼らの歌のいくつかは今でも覚えている。しかしそのものたちのちんぷんかんぷんな言葉は、主として人間的言語表現の基礎となるものの予備的な蓄えとしてしか、わたしにはその価値を感じられない。

 それに反してギリシア語はすでに自分の背後に人間の、また国家の、体験の宝を持っている。イオニアの僭主たちからアテナイの扇動政治家まで、ゲシオラスの純粋な厳しさからディオニシオスの過剰まで、デマトラスの裏切りからフィロポイメンの忠実さまで、われわれのひとりびとりが同胞を傷つけ、あるいは助けるためになしうるすべてのことが、少なくとも一度は、ギリシア人によってなされたのだ。
 われわれの個人的な選択についても同じことがいえる。ピロンの犬儒主義からピタゴラスの神聖な夢想にいたるまで、われわれの拒否もしくは同意はすでにギリシア人によってなされている。帝国のラテン語の奉献文や埋葬の碑銘の美に比肩しうるものはないし、わたしが帝国を統治してきたのもラテン語によってである。しかし、われわれの悪徳も美徳も範を仰いでいるのはギリシア語である。