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クレア・キップス 「ある小さなスズメの記録」

 生まれつきハンディキャップを持った小さなスズメの十二年の生涯の、心を打つ物語である。自分の世界を生きるスズメが淡々と叙述され、著者の強い思い入れはよくコントロールされていて、読者のセンチメンタリズムを誘おうとする嫌味がない。スズメが何を好み、何が日課であり、四歳までは鳴禽類のように歌ったが以降は無関心になり、卒中になったあとも生への気力を見せた、ということが賢明な乳母のような文章で綴られる。何十年も前から世界に知られた本であるらしい。来年、再来年、わが家がマックを失ったとき、ぼくはこのような鎮魂の文章を書けるだろうか。
 ただし、ほんの少し説教臭い。世界に「始まり」というものがあるか、についてなどは疑いが兆さない著者である。

 p88
 私はどの種にも、傑出した個性の持ち主というものがいると信じている。嵐のときに、すばらしい食料補給地としての緑の高地を最初に見つけた一羽のカモメであるとか、群れを率いて最初に大洋を渡った一羽の渡り鳥とかがいたのかもしれない。彼らのすべての行動には、偶然によるものばかりとは決していえない「始まり」があったのに違いない。
 始まりとは、神の創造ということをいいたいのだろう。しかし、「怪しいものを初めて食べた人は偉い」とはよく言われることだが、食物の可食性は別にその種の「傑出した個性」が独自に見出したものではない。毒リンゴが食べられないことは、人類はサルから、サルは鳥から、鳥はリスから受け継いだのだろうが、それは食べると死ぬことを目撃したからではなく、食べても自動的に吐き戻してしまうことを受け継いだということである。
 動物は「今のシステム全体を維持する」ことが目的であるから、生体の部品たる視覚、嗅覚、味覚は毒見器官として全体を維持する機能を持っている。「毒」の認識は、大脳表皮の認識による、食べて初めて、死んで初めてわかるものではない。動物はそれほどバカでもないし、人間の知覚が人間だけの「総合感覚」として特別なものであるわけはない。生牡蠣で二度もひっくり返ったぼくは、生牡蠣を絶対に食べない動物よりははるかに生体維持機能が劣っている。