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ウィリアム・ジェイムズ 「宗教的経験の諸相」 2

 p187
 世界は、科学の許容する以上に多面的なものである。常識とか数学とか幻覚とか、私たちの多かれ少なかれ孤立した観念体系による検証とは、結局一体何なのであろうか。世界は、これを扱う人に対して、いつでも彼が求める種類の利益を与えるが、同時にそれ以外の利益は彼にはまったく与えられない。
 p202
 イスラムでもキリスト教でも、戦争当事者に語られるレベルの通俗有神論は明らかに多元論的である。アメリカの神とイランの神はどちらも自分にとって最高の原理であるからこそ双方とも「我のみを助ける」不思議なことが成り立つ。)
 逆に、世界はその起源から高級な事物や原理と低級な事物や原理との集合として、多元的に存在したのだと認めれば、完全者としての神がなぜ悪の存在を許容するのかという、宗教哲学の難問からは遠ざかることができる。
 禅坊主にとって幸福とは完全な自然状態への回復のことでは決してない。知恵の木の実を味わった以上エデンの幸福は帰ってこない。その幸福はただ不幸を知らないというのではない。その幸福は、自然的な悪を自身の一要素として含んでいるが、その悪が超自然的な超絶的な善の中へ吸い込まれてしまうことを知っているので、その悪を躓きの石とも、恐ろしいものとも考えないような種類の幸福である。禅坊主の幸福は始末に終えない。
 p247
 私たち自身が憂鬱をまったく免れているとしても、「健全な心」の見方が哲学的教説として不適切であることは疑いない。なぜなら健全な心が認めることを拒否している(詐欺、策略、犯罪、戦争といった)根本悪の事実は、まぎれようなく実在しているからだ。悲しみや悪に対してなんら積極的な注意を払わないでおこうとする「健全な心」の体系は、悪も世界の要素としてその領域内に取り入れようとする真摯な体系よりも不完全であるといわざるを得ない。
 p256
 高度の変質者というのは、単に多方面に敏感な感受性を持っている人間にすぎない。このような人はその感情や衝動があまりに敏感すぎ、あまりに矛盾しあっているので、自己の軌道をまっすぐ走るのに非常な困難を感じるのである。 
 p297
 ある人の観念群の焦点は、その人の人格的エネルギーの習慣的な中心と呼ぶことができる。どんな観念群がその中心にあるかによって、人びとの差異は大変なものとなる。ある人が「回心」したというのは、それまでその人の意識の周辺部にあった宗教的観念が、いまや中心的場所を占めるに至ったということである。
 p349
 「意識の場」という言葉が表わす事実は、意識の周辺がはっきりしていないということである。私たちは意識の周辺部にはあまり注意を払わないが、それはあたかも磁場のようにそこに存在しているのであって、この磁場内で私たちのエネルギーの中心は意識の現在段階が次の段階に移行するにつれて、あたかも磁針のように回転する。(つまり意識の周辺部は井筒俊彦の言うB/C/M領域。無意識〜元型イマージュ、意味の種子(ビージャ)成立の場所である。この識閾下に存在する意識は一八八一年に発見されたらしい。)
 p359
 超自然的な霊感を吹き込まれた状態に関する精緻な叙述はいくらでもある。しかし、それが自然的な善の異常昂進状態とはっきり区別できる決定的な標識は一つもない。霊が第二の出生をとげたという真の証は、本当の神の子の性質の中に、すなわち永久に忍耐する心、自己愛を根絶した心の中にのみ見出される。
 p362
 しかしながら宗教的価値の究極のテストは、それが心理学的にどういうふうに起こるのかという見地からではなく、倫理的に何が達成されたのかという見地からのみ規定されるべきである。